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「千紘がいいんだよ」
思っていることが、唇からするりとこぼれ落ちる。
「伊織」
千紘は窓から視線を外して、おれの名前を呼んだ。相良識の名を呼んでいた時より、なんの曇りも感じられない、真っ直ぐなものだった。
窓の外の夕日が色味を増して、千紘の頬を赤く染める。多分おれも今、千紘と同じ色に染まっている。二人しかいない教室で、そして、これから先も近くで、二人だけの色に染まっていく。
「じゃあ、今週末はどう? 早めに待ち合わせしてご飯食べてからとか‥‥」
おれは曖昧に言葉を濁しながら、やっぱり気持ちは伝えないでおこうと思った。
ゆっくり時間を掛けて、千紘が鮮やかな色彩で絵が描けるようになって、自分の色を見出せるようになるまで、心の中にしまっておこう。
いつか千紘の絵が見たいな、なんて思いながら、おれはポケットからスマホを取り出した。週末の予定を立てようとして、千紘の顔を見た時、頬に残る涙の跡と、さっき見たあのキャンバスが、頭の中で重なった。
群青色の花瓶にあるれるモノトーンの花———
たぶんあの絵は、千紘が描いたものだ。
そしていつかあの花瓶に、鮮やかな花が生けられたとしても、相良識が見る日は訪れないだろう。遺伝子を越える愛情を持ち得る人間だけが、明るい未来を紡げるのだから。
「ありがとう」
千紘の唇から囁くような声が漏れる。
ハッとして瞬きすると、相良識の寂しそうな背中が記憶の隅へと消えていく。おれを見つめる瞳は、夕日を受けてオレンジ色に染まっていた。きれいだ、と思った。
「ん、どういたしまして」
人間は遺伝子の羅列に従ってパートナーを選ぶって言われているけれど、それだけじゃないと思う。お互いの育ち方や環境、いろいろな要因の一つに遺伝子があるだけだし、同性を愛するのは遺伝子のエラーだと言われても、おれはなんとも思わない。
だって、誰かを思う気持ちは、こんなにも世界に彩りを与えてくれる。たとえ、婚姻という形で残せないとしても、未来がない関係だと言われても、一緒に居て幸せなら、それがすべてだと思う。
蒼く透き通った恋だと思う———
(終)
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