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第1話
しとしとしと。
ざあざあざあ。
雨が降っている。
あの日もこの日も雨が降る。
そういえば、二人が出会った日もこんな雨の日だった。
始まりの日。
女学校に通う高校一年生の飯田唯には憧れの三年生の先輩がいる。
それは、とても美しく聡明な少女、桜木夢。
長いストレートの艶やかな黒髪。
おとぎ話にある白雪姫とはこういう容姿を言うのだろう。白い肌に赤い唇。薄化粧なのにこんなにも桜木夢は美しい。
名は体を表すと言うがまさにその通りで、桜のように美しく儚く夢の如き少女であった。
彼女の美しさとそれ故に漂うカリスマ性は唯の通う女学校の生徒の間でも有名で皆の憧れの的である。
そんな夢をいつも見つめる少女が飯田唯だった。
元々色素が薄いのか茶色かがったふわふわの髪を綺麗に編み込んでいる。潤んだ瞳。長いまつ毛。可愛いらしい顔立ちである。
しかし唯は、夢に対して実のところ憧れ以上の感情を持っていた。
夢をずっと見ていたいし、見るだけではない。
自分を認識してもらえたら、自分の名前を呼んでもらえたら、自分に触れてくれれば・・・。
淡い想いと叶わぬ願いを唯はひっそりと持ち続けていた。
これこそ少女の恋。
そんなある日。
もう自分の願いは、叶わないだろう・・・。
どういうわけか唯はそう考えるようになった。
夢と自分は同性な訳だし、そもそも、こんなに名もない自分のことを彼女は認識すらしていないだろう。
そう思うと胸が苦しく、痛く、あまつさえ目眩を起こし立つことができないほど。
もう叶わぬ願いならば。想いならば。
最後にさようならをさせてほしい。
貴女の大事なものに、この想いを全て込めさせてください。そして、その瞬間の想いを私の中で永遠のものにして、そっとしまっておきたい。美しい想いだけを永遠にして今この悲しみと別れさせて欲しい。
気持ちだけが先走り、唯は放課後、夢の三年生の教室へと向かった。
そう、思えばその日も雨が降っていた。
教室は薄暗く、悲しみの色。
誰か窓を閉め忘れてしまったのだろうか。時折吹く風に乗せて白いカーテンが踊る。
不規則に動く白いカーテンはまるで唯の気持ちを代弁するかのようであった。
誰もいない教室は不気味なほど静かで雨の音が嫌に耳につく。
しかし、雨と一緒に想いが流れていきそうな気がして、どうか今はこのまま降り続けてはくれないか。唯はそう願いもした。
全てが終わり、空が晴れる頃にはきっと私の心にも光が差すことでしょう!
悲しみとそして少しの喜びを持って、唯は夢の机に近づく。
そして机の中に手を入れると、その中にしまってある聖書をそっと取り出した。
この学園はミッション系。そして、聞くところによると、夢はクリスチャンらしい。
貴女の信仰に、貴女の心の拠り所に触れることをお赦しください。哀れな私の想いをひと時だけでも伝えたいのです。そうすれば私は。
唯は夢の聖書を抱きしめるとそれにそっと口付けた。
その幸福感といったらない。
甘い…甘美なる瞬間。
そして、さようならと思うとそれは苦い。
しかし、次の瞬間その幸福感は全て壊された。
「何をしているの?」
血の気がひく。頭が真っ白になる。震えることすら忘れ、ただ動けなくなる。
そこに現れたのは、桜木夢であった。
「それ、私の机。それ、私の聖書。」
夢はゆっくり唯に近づく。
怒られる、いや軽蔑される。夢は、決して赦しはしないだろう。そして皆に言いふらすだろう。私の愚行を。私の想いを。
想いを胸に秘めた日々の終わりは近い。
雨が降っている。
雨の音がする。
雨の音がうるさい。
鳴り止まない雨の音と自らの鼓動の音。
ただ、悲しみに暮れる想いに別れを告げたかっただけなのに。
雨が降る。
唯はようやく意識がはっきりしてきて、途端に足が、手が震えてきて力を失しなった。そして力がなくなった手から聖書が落ちる。
聞こえたのは聖書が落ちた音と雨の音。
「それ、私の大切なものなの。」
そう言うと、夢はゆっくり唯に歩み寄る。
「しとしとしと。ざあざあざあ。雨が降っているのね。」
唯がなおも震えていると、夢はゆっくり彼女の瞳から頬に伝う涙を拭う。
「それ、貴女の大切なものでもあったのね。」
夢は髪をかき上げながら、落ちた聖書を拾う。
そして、夢はその聖書を唯に差し出した。
「貴女にあげる。」
唯は目を見開いて首を振る。
赦されないことをしたのに、一体これはどういうことなのだろう。
汚くてもういらないということだろうか。では、なおさら悲しくてそのようなものはいらない。
「いいの。これ、貴女の大切なものでしょう?」
「で、でも・・・それは、先輩の大切なものであって。」
夢は唯の髪を撫でる。
そして彼女の言葉をかき消すように言った。
「私は代わりのものを買って大切なものにすればいいけど、貴女の大切なものはこれなのでしょう?だから、あげる。」
改めて夢が聖書を差し出すので、恐る恐る唯はそれを受け取って抱きしめた。
「よかった。・・・ねぇ、貴女、私のことが好きなのでしょう?」
ここまでくるともう何も否定する気はなかった。唯は涙目で頷くと、この場を去ろうとした。
こんなに良いことはない。話せて大切なものをもらえて、今の気持ちにさようならできたのだから。
が、その時、夢は唯の腕を掴んで引き寄せた。
「好きだったら一緒にいなくていいの?私だったら好きな人と一緒にいたいわ。」
「そ、それは、でもそれは先輩の迷惑になりますから。」
「どうしてさっきから決めつけているの?私、貴女のこと好きよ。だから一緒にいたいの。」
夢はきっと自分をからかっているのだ。きっと自分の事を心の底では、笑っているに違いない。
唯は怒りが込み上げてくるかと思っていたが、実際はその反対で悲しみに打ちひしがれ、涙を流しながら訴えた。
「やめてください。同情なんてしないでもっとはっきり私を罵ってください。お願いです。会ったばかりなのに私を好きになるなんてありません。そんなこと言わないでください。貴女が同情すればするほど私は惨めで悲しいのです!」
「また、そう言う。貴女、いつ私のことが好きになったの?その瞬間があったわよね。私はそれが今なだけ。人を好きになるってそういう瞬間があるの。私はそれが今なの。」
「先輩・・・。」
「夢って呼んで。貴女は何て呼べばいい?」
「唯・・・。唯です。」
「唯ちゃん。私たちは今から美しい関係なの。」
「うつく・・・しい・・・?」
自分は、最も赦されない最も美しい行為をして、それを見られて、赦されて。
そして今、夢と自分は美しい関係になったという。
夢の言葉は抽象的過ぎて頭が追い付かない。
しかし、夢の言葉は一つ一つが薄っぺらなものではなく、なぜかどれも信じられるものだった。もっともそうでありたいと思っていたかもしれないが。
「美しい関係。特別な関係。そうなったら私たち何をするべきだと思う?」
夢は、唯の胸に手を当てる。
「しとしとしと。ざあざあざあ。雨が降っている。雨の音。貴女の心臓も同じ音ね。」
「夢さん・・・。」
きっとこのまま、私たちは深いキスをして・・・。
そう思って胸が高鳴りもしたし恐れもしていると、夢は手を放して今度は唯の手をそっと繋いだ。
「残念。貴女の答えは外れ。私が最も尊い好きの伝え方、教えてあげる。」
唯は勝手にあれこれと想像していたことが外れ自分を恥じた。
そして、夢の言うことはいったい何なのだろうと、期待と不安の目で彼女を見つめた。
夢は美しい微笑みを見せる。このように美しく微笑むことができるのは彼女だけであろう。
たとえ、どんな美しい女優の笑顔でも唯の一番は夢の笑顔だった。
「あのね。それはもうしているのだけれど。」
「え・・・?」
唯は自分の手に目線を落とす。これが?
「手・・・ですか?」
夢はこくりと頷くと、ゆっくり唯の手に自分の手を絡める。
「好きになって一番何がしたいって。好きになって初めてその人の“好き”を確かめあう行為って、こういうことなの。私、手を繋ぐことが一番好き。私、甘いキスは好き。でもキスしあうなんて、体を繋げあうなんて、いつでもできる。後付けよ。好きになりあって一番最初にすることが一番美しい行為なの。貴女、どう思う?」
夢は唯の手を繋いでは離す。唯の指を自分の指でなぞる。何度も手の角度を変えて彼女の手を繋ぐ。
それは、時に優しい聖母のような仕草で、時には妖艶な踊り子のような仕草で。
夢の言う通りだ。
手を繋ぐという行為は何よりも甘美で尊い。
「私も好きです。とても気持ちいいです。何よりも。でも、きっとそれは夢さんとだからです。」
「だって、貴女は私のことが好きなのだもの。好きな人と手を繋ぐってそういうことなの。」
それから二人はずっと手を繋ぎあって“好き”を確かめ合っていた。
「しとしとしと。ざあざあざあ。雨が降る。雨が降る。」
子守歌のように夢が何度も言うので、唯もそれを繰り返す。
「しとしとしと。ざあざあざあ。雨が降る。」
窓の外は雨。
二人は雨の日に出会い、初めて“好き”を確かめ合った。
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