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本日の任務も滞りなく、事件の種は跡形もなく消され、裏社会の秩序は残酷にも保たれた。
幻中恭介もまた、本日の激務を終え、当たり前に檻の自室で就寝準備と武器の手入れに夜を費やしていた。
だからそれは、予定していなかった訪問だった。
コンコンコン、と正しくノックされた几帳面で少し大きなそれは、長い付き合いでなければ彼も気が付かなかったであろう程に凡庸なものだ。しかし忠犬はそれをいち早く察し、言葉では応えずに素早く扉に向かった。
「……お子様は寝る時間だが。」
「ふふ、君は本当にいつも辛辣だぜ。」
扉を開けて開口一番、どう言うべきか悩んで、出たのはいつも通りの悪態だった。しかし神原雅楽は、それにも笑って返す。いつもより少し、静かな声だ。
仕事帰りのままのシャツと下はパンツスーツの恭介に対し、雅楽はありふれたシャツのパジャマでそこに立っていた。自慢のオーダースーツを来ていない姿は実年齢よりも幼く映る。
───────まるで出会った6年前みたいだと、ふと恭介の頭に懐かしい記憶が巡った。
物心ついた時には裏社会の隅で生きていて、奪う以外に生き抜く方法を知らなかった恭介は、殺しの仕事を気ままに受けながらその日暮らしの生活をしていた。
時には殺して、奪って、その日を精一杯生きていた幼少期にこの世の絶望は大まかに全て味わったような気がした。裏切られて、手のひら返しを受けて、命をゴミ呼ばわりされて、人権なんて無いような扱いを何度も受けた。最後に笑ったのはいつかもわからなくなって、そうやって大きくなった。
朝起きたら、顔を洗って、髪型を七三に分けて、シワのないシャツをピシリと伸ばす。薄い眼鏡をかけた鏡の前の自分はまるで普通のサラリーマンだ。見た目ばっかり真面目そうに整えて置けば、誰も彼をフリーの殺し屋だなんて目で見ない。実質、人間とはそういうものなのだと偉そうなデブの首に刀を滑らせながら思う。絶望し尽くした人生に色など無かった。死んでも生きてもどうでも良くて、死ぬために殺していると言っても過言ではなかった。退屈でどうしようもなくて、煙草も死にたくて始めた。
だからその日、「今殺さなければ全員喰われる」とまで言われていた人物の殺しを引き受けたのは、そこで人生を終わらせてしまいたかったのだと思う。
雅楽の事は資料を見た時、自分の持っていないものを全部持って生まれたような子供だと思った。政府の要人の息子で、将来も約束されていて、それでも野心家で、彼は周り全てを巻き込んで大きくなっていく台風の目のような存在だと言われていた。
彼専用の執務室に忍び込む事は容易かった。部下をつけている訳でもなく、今回は早く終わりそうだな、なんて無感情に思って刀を抜いた。
しかし、死角から抜刀した彼をパッと振り返った少年は、チカチカする大きな瞳で彼の意識をを絡めとった。
流星のような瞳だった。大きくて眩しくて、吸い込まれそうで目まぐるしい。思わず呼吸を止めた恭介に、彼はまっすぐに問うた。
「何故君は、僕を殺しに来た?」
瞳と同じくらいまっすぐな声だった。はっきりと鮮明な問いは、思考がまっさらになってしまった彼の脳に突き刺さった。
そこにあったのは、生きる事が退屈で、死んでしまいたかったからという明確な答えひとつだけだ。
「退屈なんだ。生きることが。」
ポロリと漏れたそれはありのままの本音だった。それを聞いた彼は何故かますます瞳を輝かせ、さも救世主のような態度で、大袈裟な身振りで、
「僕が殺してあげよう!!」
意気揚々と、殺害予告をしたのだ。
「─────ふ、でかくなったな、あんたも。」
思わず笑った恭介に、ピンと来たらしい雅楽が少し面白くなさそうに口を尖らせた。
「君、また感傷に浸っていただろう。年寄りがすぎるな」
「うっせーまだ30代だっつの」
ありきたりな言葉の応酬をしつつ、恭介の部屋に入った雅楽は当たり前のように簡素なベットに腰掛けた。それを恭介も当たり前のように特に反論しない。
お互い、今から行うことに関して口に出す必要はないと分かっていた。
それから恭介が武器を仕舞い、シャワーを浴び、寝る準備を整えるまで、彼は黙ってベットの上に乗っていた。お互い無言だった。しかしそこに冷たい空気は無かった。ごく、当たり前に。二人はそうしていた。
恭介が少し湿った髪のまま、断りもなく電気を消す。薄暗い部屋で、雅楽の瞳も少し控えめに揺れていた。眼鏡の無い恭介はいつもより目付きが数倍悪くて、なのに瞳の奥が優しい色をしているのが雅楽には酷く安心できた。ぬるい空気だけが、二人の間に流れている。
「またせたな」
低い声は暗闇に溶けて、雅楽の緩やかな笑顔も、夜に溶けるようだった。
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