フルート協奏曲『嵐の海』

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フルート協奏曲『嵐の海』

『あなたのユメ 買います』  雑踏にまみれた街中で、そんな看板を見つけた。  何の代わり映えもしない、いつもの風景。駅に向かうヒトはどこか他人に無関心で、その目は一体どこを見ているのか分からない。  それは彼女、瀬尾みなみも例外ではなかった。  朝起きて顔を洗い、テレビで今日の天気を確認しながら、朝食は十分で済む食パン一枚とカップスープ。薄く化粧をして顔を整え、癖のついた栗色の髪にヘアアイロンをあてて、邪魔にならないよう結い上げる。  最後にいつものスーツを纏って家を出れば、あっという間に雑踏の中のちっぽけな一人になる。  昔はもう少し、世界は色鮮やかだった気がするのだけれど。  今彼女が見ている風景は、あまりにも彩りに欠けていた。 『あなたのユメ 買います』  何の変哲もない、通勤の道のはずだった。ただ無機質に流れる風景を、気に止めるわけでもなく流していたはずなのに。 『あなたのユメ 買います』  そんな看板が目に飛び込んできた。  みなみは首をかしげる。あんなところに看板はあっただろうか。  けれど、最近設置されたというにはどこか古ぼけているように見える。ずっと前からそこにあって、みなみが気づかなかっただけかもしれない。  そっけない明朝体で書かれたその小さな看板の下には、細い路地が口を開けている。  この横断歩道の向こう側では様子を伺うことはできない。  自然と、足が止まっていた。いつも乗る電車の時間が迫っている。  その路地を進んだ行き止まりには、黒い鉛のノッカーがついた、ひとつの鉄の扉。その両脇には十字の格子がついた小窓がふたつずつ。漆喰を塗り込めたそのグレーの建物は静かにそこに鎮座していた。扉の上には平たく端が欠けた木の看板で「ユメ買い屋」と記されている。  みなみはひとつ息を呑む。ゆっくりと歩み寄る。そのノッカーに触れればひどく冷たく、けれど好奇心のままに、みなみはそのノッカーを鳴らす。  鈍い音。返事はない。  ゆっくりとその扉を押せば、軋む音をさせながらも、開く。  赤、黄、緑、青、灰、白。  夕暮れ、晴天、雨空、宵闇。  中は、色とりどりのランプが灯る部屋だった。きらめく光の奔流に、めまいがするほど。  けれど、決して眩しいわけではない。惹かれ引かれるそのままに、足を踏み入れた。  ランプ以外にも、陶器や小物が雑多に陳列されていた。それらがいずれもアンティークと呼ばれる程の年月を経ていることは、知識のないみなみにも理解ができた。  手に取りたい。触れてみたい。  けれど、それがひどくおこがましいことであるように思わされた。  差し出した手を引いて、逡巡する。惹かれることは確かなのに、それでも手が伸ばせないその「光」。 「いらっしゃいませ。お客様」  その声に、弾かれるように振り向いた。  そこに立っていたのは細い銀縁の片眼鏡をかけた一人の青年。黒髪は麻ひもでひとつに結って後ろへ流し、服装は燕尾服と、まるでどこかの物語から抜け出してきたような、そんな常識とは外れた格好をしていた。 「ユメ買い屋にようこそ。お客様」  端正な顔立ちをした青年は、そうしっかりとみなみと目を合わせて笑む。どこか中性的にも思えるその青年に、心臓がどきりと騒ぐ。 「あ、の、すみません。勝手に入ってしまって」  店というからには、何かを売買しているのだろう。けれど、それは自分とは縁遠い世界の話の話であるというのは、この店の佇まいからもよく分かることだった。 「私、別に何かを買うつもりもないし、そろそろ仕事もあるし……」 「あぁ、けれど、アナタはこの店にやってきた。それだけで、十分に資格があるんですよ」  そのテノールは心地よく響く。振り向こうと後ろへ足を下げただけで、それ以上動くことができない。どこか、魅入られたように。 「お嬢さん。お名前を伺っても?」  いつまでもお嬢さん、というのも呼びづらい、と彼は告げる。 「僕は、この店の主をしている『ナイア』といいます」  その翡翠を埋め込んだような双眼の笑みが、みなみをとらえて離さない。 「あの、表の看板で、ユメを買う、って書いてありましたけど……それは?」 「えぇ。言葉通り。ここは、ユメの売買を行っております」  どうぞ、と眼前に出されたティーカップはアンティーク調のきれいなものだった。ふわりと紅茶のいい香りがする。正面に座った青年は一度自分の方のティーカップへ口をつけた。  結局、職場には休みの連絡を入れた。どうしても、この場所から逃れることが出来なかった。 「ユメ、って、夜に見るアレ、ですか」 「そうしたモノもありますが、いつかの未来を望むような、そのようなユメも取り扱っています」  青年はランプをひとつ棚から取ると、彼女と自分の間へ置いた。 「ここに並べてあるすべてのものは、かつての誰かのユメです。己には不要となったユメを引き取り、他に必要としていらっしゃる方へお譲りする。そんなことを、生業としております」  流麗な口調でそう言いのけた彼だが、みなみはなかなか理解が追いつかない。  怪しい宗教か、はたまたセールスか。どうして立ち止まってしまったんだろう、と我ながら思うが、理由はどうもわからないままだ。  みなみが戸惑っていることは、彼にも理解ができているのだろう。皆様同じような顔をなさいます、と口元を彩る笑みは少し苦い。 「ひとつ、ご覧になるのがよろしいでしょう」  青年は部屋の奥へ向かうと、ひとつの瓶を持って戻ってきた。薄青で半透明な瓶には、中に虹色に煌めく何かが入っていた。 「お客様。あなたは音楽がお好きですか?」  青年の細く白い指が、瓶の留め具をパチンと外す。 *****  静かな部屋にあるのは、一台のアップライトピアノに、ローテーブル。出口の扉の近くには、天井から小さなモニターが下げられている。  特別何をするわけでなく、私は出番を待っていた。  身にまとうのは青のロングドレス。私が憧れた、あの人と同じ青のドレス。  肩口で切りそろえられた黒髪。その毛先を少し遊ぶように指で触れる。子どもの頃から、演奏会のときはいつもこの髪型だった。爪を切りそろえるのは二日前。  モニターには定点カメラの映像だけが映されていて、音はない。人によれば雑念になるから、とこのモニター自体を切ってしまう人もいるそう。時間になれば係の人が呼びに来るから、たしかに問題はないけれど。私は会場の空気が知りたいタイプだから、そのモニターをつけっぱなしにして折々眺めることにしていた。  無声映画のようなその映像に動きがあった。コンサートミストレスが立ち上がる。それに合わせて全員が立ち、彼女に合わせて席の方へ一礼する。 『これより、三十分の休憩をいただきます――――』  ホールへの放送が、部屋についたスピーカーから流れる。  ここからの三十分はあっという間だ。始めの頃は、この時間がもどかしくて落ち着かなかったけれど。今はもう落ち着いたものだ。経験は自分を強くする。  一ベルが鳴るころには、私も舞台袖に立つ。席を立ったお客様へのアナウンスが終われば、奏者が舞台へ入っていく。開いた扉から見える客席は、まだ休憩前のプログラムの興奮が冷めていないことが分かる。指揮者を迎える拍手は熱がこもっている。  今日も、とても良い舞台に恵まれた。  視線を落とすのは、その手に持つ「相方」  プロの世界に立ってから、ともに歩んできたそのフルートを片手に、一歩を踏み出す。  拍手が迎える、私の舞台。限られた一握りの人間だけが立つことの出来る、厳しくも華やかな場所。  指揮者、そしてコンサートミストレスと握手をして、観客席の方へ向き直る。一度、指揮者と目配せをすれば、指揮者はその白いタクトを振り上げた。  ライトに照らされて輝く銀のフルートへ、唇を寄せる。  ヴィヴァルディ作曲、フルート協奏曲『嵐の海』  弦楽器とチェンバロ、そしてフルート全てで転がるように軽やかに、音楽は始まる。  ときに語り合うように、ときに穏やかに凪ぐように、荒々しく、華やかに。 このホールすべてを私の音色で染めていく。  音を奏でるこのときのために、私は全力で生きている。 *****  こぽこぽと、何かの水音がする。舞台にはそぐわない。否、自分は舞台などにはいないはず。  私は、どこにいたのだったか――――。  ぼんやりと、顔を上げた。 「お目覚めですか、お客様」  みなみの前には、ここへ自分を迎えたときと同じ笑みをたたえた一人の青年。その顔が、思いのほか自分を近くで見つめていたから。みなみは反射的に飛び起きた。 「え、っと……」 「お見せしたユメは、お気に召しましたか?」  そう青年は新しくお茶――紅茶の香りではない。どうやらハーブティのようだ――を入れ直したカップをこちらへ差し出した。特に何があるわけでもないのに、心臓が高鳴っているのを自覚する。  それを紛らわすように、ぎこちなくそのカップを手にとり一口つけた。  柔らかな香りが広がる。あまりお茶の種類には詳しくない。それでも、どこか気持ちが安らぐような、ほっとする香りだった。  表情にも現れていたのかもしれない。青年は「お気に召したようで何よりです」と評した。  そうしてようやく、みなみは「ありがとう、ございました」と声を上げる。 「夢、なんです、よね」  今も変わらず、みなみの脳裏にはドレスを纏って舞台に立ち、オーケストラと演奏をともにした「記憶」が鮮麗に残っている。  けれど、彼は「ユメ売り」だと言った。ひとつ、自分に「見てみるか」とも。  それならば、あの「経験」はきっと「ユメ」なのだろう。理屈もわからず、それでもみなみは心のどこかで確信する。  青年も、みなみの表情で理解をしたらしい。 「あなたの思っていることは、概ね正しいでしょう」  答え合わせの必要はありません。彼はそう続けた。 「誰にも、このような幼い頃に願ったユメを見て、眼前に広がる美しいユメに魅せられたことがおありでしょう。けれど、そういったものを抱えておくことが、ユメを見続けることが、つらく思える人々もいる。そんなお客様への、手助けをする。そのために、私はここで見たくないユメを買うのです」 「ユメを見ることが、つらい……?」 「えぇ。それが輝かしければ輝かしいほど。完璧であればあるほど。そのユメを見ることが、ユメを抱くことがつらくむごい行為になる」  そう笑う。夢を見ることがつらくなるような、そんな事態を考えたことは一度もなく、なかなかに理解は難しい。  ただ、みなみにはそれよりも気になることがあった。 「ユメを買って、どうするんですか……?」  そう尋ねたのは、単なる好奇心が半分、まだあのユメに魅せられていることを自覚する行為だった。青年はみなみの問いに、温かなカップを口元へ運んだ。 「こうしてランプや瓶に込めるのです。ユメは霧散させれば消えてしまう。それはあまりに愚かしい。けれどそれを持ち続けているのがつらいというのなら、私が代わりに譲り受けているのです。ヒトの紡ぐユメは、それだけで価値がある」  それを彼は蒐集している。その果てに、彼がこの夢たちをどうするのか。それは尋ねなかった。  代わりに、その青年がみなみへひとつの提案をしたからだ。 「もし、あなたがお気に召したのなら。今のユメをお譲りすることもできますよ」  ほんの少しばかりの謝礼は必要だが、と彼は付け加えた。もし、みなみに手放す「ユメ」があるならそれでも良いが、と続けた。みなみは首を横へ振る。 「ここへいらしたということは、あなたもユメを求めているか、己のユメに苛まれているお方。この店が、あなたの生の手助けとなるならば。私は協力を惜しみません」  初めから終わりまで、その青年はひどく聞き心地のいいテノールを響かせた。 *****  みなみがこの店を見つけたのは、この日が最初で最後であった。  記憶を頼りに道をたどっても、路地裏の小さな骨董屋は見つからず。  みなみの部屋に置かれている、あの日買ったユメの小瓶だけが、あの日の出来事を覚えていた。
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