か・え・る

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 「カエルを呼べ!」  「田園風景とカエルの大合唱が答えだ」と優実が言った.            ※  優実は仕事で疲れた時に、ホテルの展望ラウンジで一人、夜景を眺めながらカクテルを飲むのが好きだ。    ピアノは今、静かなバラード、ミスティを奏でている。心地よい生演奏は心と身体を癒してくれるはずだが、この曲はなぜか、薄く霧がかかったような今の自分の心のようだと感じた。  あれからもう十年  実家は北陸の金沢に近い田畑や山々が連なる町である。都会に憧れた。  高校卒業後、東京の大学を卒業し、商社で総合職として働いてきた。  都会のタワーマンションでの暮らしと海外勤務は昔描いた夢であった。それらも何とか実現したが、全く幸せを感じなかった。  これが私の目指していたものなのか?  本当に私の人生はこれでいいのか。  これまでの日々は充実していたのか、自分は何に真の価値を見出すのか。  虚しさで現実から逃げ出したくなってきている。  恋人とは言えないまでもボーイフレンドもいるのに。  人が聞けば超贅沢か。  私には、何かが違うのだ。  最近、突然動悸が止まらなくなり、わけもなく不安にかられる。  これは、何か病気のサインなのかと思うことがある。            ※  「優実、仕事帰りに食事でも一緒しない?」と同期入社の美佳が誘った。  「そうね、飲もっか」優実は即答した。  夕方、二人が入ったのは古民家風居酒屋であった。  「美佳、この店にはよく来るの?」美佳が意外な店を馴染みにしていることに、優実は少し驚いた。  「うん、たまにね。うちの田舎を思い出すのよね」美佳は、田舎風の内装に目を遣った。店内にはどこかの地方の民謡がながれている。  「でも、まだ何か足りないわよね、家族のぬくもりとか」優実が言った。  「田舎にいた時は、狭い世界がうっとうしく感じたけど、年齢を重ねると恋しくなるのよね」美佳がしみじみと言った。  二人は、美佳の田舎の有名な芋焼酎のお湯割りで乾杯した。  「あの頃は、初夏になると田んぼのオタマジャクシがカエルにかえって、うるさくて眠れないくらいの大合唱だったなあ」美佳がグラスを傾けながら懐かしそうに続けた。  「そっかあ、カエルを呼べ!」優実が大きな声で言った。  早々に酔ったわけではない。  「急に何言ってんの」美佳が驚いた。  「田園風景とカエルの大合唱が答えだ」  「それが、今の私に必要なものだったんだわ」優実は大きくうなずいた。  優実の心象風景の中にあったのは、まさにそれだ。  あのカエルの鳴き声、その波長の「ゆらぎ」や里山の風景がもたらす「安らぎ」が自分の心と共鳴するのだ。  それが、心のよりどころだったんだと今ハッキリと気がついた。  故郷へ帰ろう。            ※  それから十年後  故里へ帰った優実は地元の有志と共にワイナリーを設立した。  会社勤めも気が向かなかったし、地元の役所から即戦力としての誘いもあったが断ったのだ。  日本の気候や土壌ではブドウ品種は限られてくる。それでもピノノワールをつくりたかった。  海外から汎用ワインを樽買いして、そこに自家製のブドウジュースを混ぜればいいという意見もあった。手っ取り早く利益を上げようと言うのだ。  優実は自家農地、自家醸造、自家ビン詰めという生産地呼称にもこだわりたかった。  本格的なワインを造りたいからだ。  幸い、小高い山の南側斜面を購入できた。  しかし、現実はそんなに甘くはなかった。  土地こそ安価ではあったが、土壌は悪く、また、高温多雨はブドウの品質を著しく落とした。  最初の5年は、苦労の連続でブドウが成熟しなかった。撤退していく者もいたが、優実は残った仲間と自分を信じた。  預金残高がみるみるうちにゼロに近づいていく。  お金が無くなっていくことに恐怖を覚えた。  商社時代は考えてもみなかったことだ。給料とは当たり前にもらえるものだと思っていた。  やっと、何とか経営が軌道に乗ってきたのはここ2~3年であった。仲間と自分の努力だけが希望であり支えであった。 何があっても、明日は良い日になると信じた。  ブドウの収穫、圧搾、醸造、貯蔵、ビン詰め、販売と全ての工程を体験した。  昨年初めて、国際ワインコンテストに入選し、徐々に注目を浴びるようになった。  先日は雑誌の取材にも応じている。 『ワインの熟成と人生の旅路』などと大げさなタイトルで地元タウン誌を飾った。            ※  初夏  あたりが薄暗くなってきた。  ブドウ畑から見える、日本海に沈む夕日はすばらしい。今年のブドウの出来を祈りながら、今日は屋外で地元農家やその家族が集まってのパーティであった。  そして、あの美佳が5歳になる一人娘を連れてやって来る。            ※  「優実、久しぶり。相変わらず頑張ってるんだ」  「うん、何とかね。もう少しワインの生産量が上がったら世界に打って出ようかな」優実が笑いながら美佳の娘の頭をそっとなでた。  「優実なら何だってやれると思うよ」美佳が屈託のない顔で言った。  「まさか、農業がこんなに大変だとは思ってもみなかったよ。お金さえだせば、スーパーで好きな物買えるってすごいなあと今さらながら思う時がある」優実は日に焼けた顔を美佳に向けて言った。  「優実、今は充実してるね。幸せと顔に書いてあるもん」美佳は言った。  少しずつワイン造りが楽しくなっていた。  そして、シングルライフも結構いいなと思ってきている。  誰かがラジオのスイッチを入れた。  どこかで聴いたピアノのメロディが流れて来た。  夕闇で、里山はまるで霧がかかったように見える。  「この曲、ミスティ?」美佳が言う。  「そうよね!」優実は、遠くのカエルの大合唱がオーケストラのように思えた。  カエルのオーケストラをバックにピアノがミスティを奏でる。  これこそ贅沢、優実は愉快になってきた。      夜空に一筋の流れ星   明日に良いことがありますように!
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