ゼロセンチメンタルな僕等

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 僕とヴィクトール様が出会ってから長い時間が経った。その長い時間の間に、僕は何度もミス・ゲシュタルトとしてヴィクトール様の前に姿を現した。  時が経つにつれ、お互い相容れないものだというのをまじまじと感じてしまう。ヴィクトール様はたしかに年老いていくのに、ミス・ゲシュタルトは歳を取らずに少女の姿のままだからだ。  元の姿に戻れば、僕もそれなりに歳を取っているのに、ミス・ゲシュタルトへと姿を変えているときだけは若返る。その若返っている時間が、置き去りにされているように感じられた。  ミス・ゲシュタルトはいまだ貴族や豪商の悪事を暴くために、銀行などに忍び込んでいる。けれども、ヴィクトール様はしばらく前に前線を退いてしまった。理由はわかる。もう体が追いつかないのだろう。  いつまでも若いままで、街中を駆け回るミス・ゲシュタルトを追い続けるだけの体力がもう無いのだ。  ヴィクトール様が警邏隊の最前線から退いて数年、ある日を境にヴィクトール様は孤児院にも姿を見せなくなった。代わりに、孤児院へと支援金を持ってくるようになったのはヴィクトール様の息子で、父親に似て正義感があり誠実な人だ。  もうこの孤児院にヴィクトール様が来ることはないのだろうか。それを考えると泣きたくなった。  あの人がこの孤児院に来なくなれば、ミス・ゲシュタルトの正体が割れるなんてことがないのだから安心していいはずなのに、全然安心できなかった。  ヴィクトール様が孤児院に来なくなって数ヶ月。僕は思いきって行動を起こした。  夜の闇に紛れ、手首に着けている銀色のブレスレットを額に当てる。すると、夜の闇の中でもわかる黒い靄が僕の身体を包んだ。その靄が消えると、先程までのくたびれた体はどこへやら、ドレスを着たうら若い少女、ミス・ゲシュタルトへと姿を変えた。  今夜の目的地は銀行ではない。目指す先は貴族の屋敷だ。  貴族の屋敷が寄り集まっている区域に足音を消して入り込み、目的の屋敷を探す。その屋敷の窓という窓から、そう、二階だろうが三階だろうが壁を伝って覗き込み、目的地を探す。  そして、僕は目的の部屋を見つけた。  用心しているのだろう、しっかりと鍵の下ろされた窓のガラスを一部切り取り、鍵を開ける。それから、なるべく静かに部屋の中へと入り込んだ。  部屋の中央近くには天蓋付きのベッドが置かれていて、僕はそこに歩み寄って声を掛ける。 「ヴィクトールさん、随分とお久しぶりね」  ベッドの上に横たわっているのはすっかり年老いて、若かった頃の姿からは想像できないほど痩せてしまったヴィクトール様だ。  ヴィクトール様は、それでも鋭い目つきで僕のことを見る。もしかしたら、すぐにでも私兵なり警邏隊なりを呼ばれるかもしれない。  そう思ったけれども、ヴィクトール様は僕に手を差し伸べてこう言った。 「もっと近くに」 「あら、いまだに自力で私を捕まえたいのかしら?」  目頭が熱くなるのを感じながら茶化すようにそう返すと、ヴィクトール様はじっと僕を見てこう続ける。 「私がおまえに会うのはこれが最後だろう。 だから」 「だから?」 「おまえの素顔を見せて欲しい」  僕は瞬きもせずにヴィクトール様を見つめる。ここで瞬きをしたら涙が零れてしまいそうだった。 「それはできない相談だわ」  ここで仮面を外したら、僕はヴィクトール様の目の前で元の姿に戻ることになる。それだけは絶対に避けたかった。 「最後のお願いでも、絶対にあなたには正体を明かすわけにはいかないの。 でも、最後に会えて良かったわ。 それではごきげんよう」  僕が距離を取ると、ヴィクトール様はなおも手を伸ばす。  それを見ない振りをして、振り払うようにして僕は窓から飛び降りた。  ヴィクトール様の屋敷に行った翌朝、なんであんなことをしてしまったのだろうと、ヴィクトール様の姿を思い返す。あんな風に縋られるくらいなら、行かなければ良かった。  そう思いながら孤児院の年嵩の子達に帳簿の付け方を教えていると、馬車の音が聞こえてきた。  ヴィクトール様の息子が支援金を持ってきたのだろうか。それにしても、前回来た時から間が空いていない。  不思議に思っている間にも馬車は孤児院の前で止まり、入り口をノックする音が聞こえる。 「はい、なにかご用ですか?」  僕がドアを開けてそう訊ねると、ヴィクトール様の息子が真剣な顔で、気が急いたようすでこう言った。 「ゴーチェさん、今すぐ私の屋敷に来て下さい。 父上がお呼びです」 「ヴィクトール様が?」  急にどうしたのだろう。いよいよ僕がミス・ゲシュタルトだと勘づいたのだろうか。  不安に思いながら馬車に乗りしばらく揺られる。そして、辿り着いた先の屋敷で、僕は上等な服に着替えさせられ髪も整えられた。  ヴィクトール様の息子は慣れない服を着た僕をヴィクトール様の寝室へと案内する。通された部屋の窓には、昨夜僕が開けた穴がそのまま残っていた。 「ああ、来てくれたんだね、ゴーチェ君」 「ヴィクトール様、お久しぶりです」  これは、僕はヴィクトール様に近づいていいのだろうか。それを伺うように息子の方を見ると、一礼をして、使用人も残さずに部屋から出て行ってしまった。  広い部屋の中でふたりきり。どうしたら良いのかわからない僕に、ヴィクトール様が手招きをする。僕はすぐにベッドの側へと歩み寄る。 「あの孤児院を残していくのは残念だよ」  ヴィクトール様が掠れた声で言う。  昨夜と同じように僕に手を伸ばす。僕は今度こそその手を取った。 「最後に、君だけに打ち明けたい秘密があるんだ。聞いてくれるかい?」 「……はい」  どんな秘密かはわからないままに頷くと、ヴィクトール様ははっきりとこう口にした。 「私は、ミス・ゲシュタルトのことを愛していたんだよ」  それを聞いて戸惑う。まさか、そんなことを言われるとは思っていなかったのだ。 「もし捕らえることができたら、彼女に伝えてくれ」  どうして、どうしてそんなことを僕に頼むんだ。今まさに目の前にいる本人に、よりにもよって。  目の前にいるのに、僕は自分がミス・ゲシュタルトであることを打ち明けられない。そんなことをしたら、僕のことをずっと信じていたヴィクトール様の気持ちを裏切ることになる。だから。 「わかりました。その時が来たら」  そう答えるので精一杯だった。  一方的に気持ちを伝えてずるいと思った。僕は結局、なにひとつ伝えられなかったのに。  でも、これでいいんだ。  この人の気持ちは誰にも汚させない。
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