ゼロセンチメンタルな僕等

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 結局あの日はミス・ゲシュタルトを捕まえることはできなかった。そのことに安堵してしまったのはなぜだろうか。自分でもわからない。  あの時はミス・ゲシュタルトを取り逃がしたけれども、捕まえるまで、もしくは物理的に射止めるまであの修道士は警邏隊に付いてくるのだろうか。それを考えると背筋が凍るような思いがした。  そんな不安があったある日、領主様からこんな話が来た。今後修道士は同行させず、ミス・ゲシュタルトを警邏隊が捕まえたら修道院に引き渡す約束をしたというのだ。  それを聞いて安心したような、不満なような複雑な気持ちになる。  なにが不満なのだろうと考えて、すぐに理由に気がつく。私は、ミス・ゲシュタルトを修道院に差し出したくないのだ。  修道院に差し出して、彼女を魔女裁判にかけさせるくらいなら捕まえられない方がいい。ついそう思ってしまったけれども、それでも私はミス・ゲシュタルトを追って捕まえなくてはならない。そう、ミス・ゲシュタルトを捕まえることは、私の念願なのだから。  ふと、いつだったか、ミス・ゲシュタルトとやりとりをしたときのことを思い出す。  領主様がとある孤児院の支援をしたいということでその孤児院を視察に行ったあと、私はその孤児院を支えている青年の心意気に感動し、その後何度も訪れるようになった。  そんな中のことだった。ミス・ゲシュタルトが私にこう訊ねてきたのは。 「なぜあなたは貧民街にある孤児院に出入りするのかしら?」  その問いに、私は毅然と答えた。 「私はあそこの子供達を支えたいからだ」  すると、ミス・ゲシュタルトは珍しく忌々しそうな口調でこう言った。 「貴族があまり貧民街に出入りすると迷惑になりますの。 貴族だって、貧民が自分たちの屋敷の近くでうろうろしていたら迷惑でしょう?」  それを聞いて衝撃を受けたのはよく覚えている。そう、すぐにはなにも言い返せなかったくらいに。  そして彼女は続けてこう言った。 「あなたは正義感が強いけれど、正義って何かしら?」  その答えも、私は返せなかった。今でも答えは見つかっていない。  それらのことを思い出して私は考える。なぜミス・ゲシュタルトは貧民のことを気にするのだろうか。  ミス・ゲシュタルトの身なりを見る限り、彼女は貧民ではないだろう。貧民には彼女が着ているような服や装飾品は揃えられない。  そして、ミス・ゲシュタルトは本当に悪人なのだろうか。  わからない。なにもわからない。彼女のことが……  そう、ミス・ゲシュタルトのことはなにもわからない。けれども、彼女が言っていた言葉からあの孤児院について、いや、貧民街についてすこしだけわかった気がする。  彼女は貴族である私が貧民街にある孤児院に頻繁に出入りをして、あの孤児院が他の貧民からやっかまれたり、なにかしらの被害を受けるのを危惧しているのだろう。  私は貴族として生まれ、ずっと裕福な暮らしをしてきた。私以外の貴族も、一般庶民に比べればそうだろう。けれども、貴族といえども中級以下ともなればより上の位の貴族に取り入ることに必死になり、腹の探り合いや足の引っ張り合いは当たり前に起こる。  裕福な貴族でさえそうなのだから、毎日を生きることさえ難しい貧民達が暮らす貧民街で、私が特別にあの孤児院だけを気にかけていたら他の貧民がどう思うか。それは想像できるような気がした。  とは言っても、ミス・ゲシュタルトに指摘されるまでそのことに気がつかなかった私は、本当にうっかりものなのやらお花畑なのやら。反省しきりだ。  しかし、孤児院に行くことをやめたくはない。領主様から孤児院へ支給する支援金の配達を頼まれているというのもあるけれども、それ以上に、私はあの孤児院に親しみを覚えているからだ。  孤児院に迷惑をかけずに貧民街に入るにはどうするべきか。そう考えて、孤児院の青年に言われたことを思い出す。領主様の支援だけでなく、私からも支援を申し入れたとき、あの青年は孤児院だけでなく貧民街に住む人々のためにお金を使って欲しいと言っていた。それならば、私は貧民達に受け入れてもらえるよう、なんらかの形で貧民達に施しをしよう。  もので釣っているだとか金で釣っているだとか言われるかもしれないけれども、それでかまわない。それで私が受け入れられて、貧民達の生活が少しでも楽になるのなら誰も損などしないのだ。  ふと、孤児院に思いを馳せる。私には娘も息子もいるけれども、あの孤児院の子供達のような頃が、私の子供達にもあった。  幼い子供が食べるものに困っているという現状はなんとかしたい。もし自分の子供が食べるものに困ったりしたら、きっと私だって不安でしかたなくなるだろうから。  孤児院で子供達の面倒を見ているあの青年は、今頃どうしているだろうか。いつも子供達のことを案じて、貧民達にも気を配っているあの優しい青年は。  彼の顔を思い出して、ふと心にこんな思いが過ぎる。  あの青年を、私の元に抱えられたらいいのに。
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