ゼロセンチメンタルな僕等

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 ある日のこと、いつものように孤児院で子供達の相手をしていたら、外から馬車の音が聞こえてきた。  ああ、あの音はまたヴィクトール様がやって来たんだ。思わず孤児院の中を見渡す。アリスティドに声を掛けようと思ったのだけれども、そういえばアリスティドは随分前に忽然と姿を消したのだった。  僕がアリスティドと過ごしていた時間はものすごく長いわけではないけれども、すぐに忘れられるほど短くもなかった。だからいまだに、なにかあるとアリスティドの姿を探してしまうのだ。  アリスティドと最後に話したとき、もう二度と僕達の前には姿を現さないと言っていた。アリスティドがこの孤児院に現れた理由も、突然姿を消した理由も、僕は知らない。ただ確実に言えるのは、そんな得体の知れない相手でも、僕の大事な相棒だったのだ。  アリスティドの言葉を思い出す。僕も自分なりにヴィクトール様との折り合いをうまく付けないといけない。その言葉通り、今のところ表面上は当たり障りなく接することができているし、ヴィクトール様の機嫌も損ねていない。  けれども、ヴィクトール様と会う度に心の中がざわめいてしかたがない。これは、いつ僕がミス・ゲシュタルトだと知られるかという不安なのだと思うけれども。  思わずぼんやりしていると、孤児院の入り口を誰かが叩いた。その音にはっとする。僕は手を繋いでいた子供の手を離して入り口のドアをそっと開ける。すると、そこに立っていたのはいつものように仰々しい従者と馬車を連れたヴィクトール様だった。 「やあ、ごきげんようゴーチェ君。 元気にしていたかな?」 「はい、おかげさまで僕も孤児院のみんなも元気です」  簡単に挨拶をしてからドアを大きく開けると、ヴィクトール様は従者に馬車を見張っているよう指示を出してから、ひとりで孤児院の中へと入ってくる。 「おじちゃんひさしぶり!」 「またいっしょにあそぼ!」  幼い子供達がヴィクトール様に駆け寄って抱っこをせがむ。年嵩の子供達も、もういい加減小さな頃からヴィクトール様と馴染みなので、警戒はしていないようだ。 「おじちゃんはゴーチェ君とすこしお話があるからね。遊ぶのはその後だよ」 「はーい」  ヴィクトール様は子供達の頭を撫でてから、孤児院の奥にある事務室のドアを見る。 「それじゃあ、みんな良い子にしてるんだよ」  僕は子供達にそう声を掛けてから、ヴィクトール様を事務室の中へと案内する。ドアを閉めて、幼い子供達が年嵩の子供達と遊びはじめたのを音と声で確認してから、小声でヴィクトール様に話し掛ける。 「今月の分ですか?」 「ああ、そうだよ。 最近物価がすこし上がっただろう。だから、すこし中身も増えていると領主様が仰っていた」  物価の上昇に合わせて支援金を調整してくれるのはありがたい。逆に言えば、物価が下がったときは支援金の額も減るわけなのだけれども、生活と炊き出しをできる分だけ支援してもらうという契約になっているので文句はない。それに、いくら領主様といえども財産に限界があるのを、僕はよくわかっている。  ふと、ヴィクトール様が懐に手を入れながらくすくすと笑う。 「実はね、先日妻に叱られてしまってね」 「え? なにかあったんですか?」  奥さんに叱られるなんて、ヴィクトール様はなにかやらかしたのだろうか。そう思っていると、ヴィクトール様はちらりとドアの方を見てからこう言った。 「もう長いことこの孤児院に入れ込んでいるけれど、身分差を忘れないようにと釘を刺されてしまったよ」 「それはそうですね」  そう、ついうっかり忘れがちになるけれども、ヴィクトール様の奥さんが言うとおり、本来なら僕とヴィクトール様は言葉を交わすきっかけなんてなかったはずだし、こんなに気安く話をできる相手ではないのだ。  それを改めて意識して、苦々しい気分になる。身分差のことを忘れてる時間はどれだけ心穏やかなのかと実感してしまった。  思わず視線を落とすと、ヴィクトール様が背をかがめて僕の顔を覗き込んでこう言った。 「そういえば、ゴーチェ君は結婚はしないのかな?」 「えっ? なんでですか?」  急な質問に思わず心臓が跳ね上がる。結婚していないことを隠したいわけではないけれど、とにかく驚いた。  思わずヴィクトール様の目を見ると、ヴィクトール様は優しく笑ってこう続けた。 「君もいい歳なのだから、妻がいてもおかしくないだろう」 「えっと、その……そうですね」  たしかに、僕ももういい加減いい歳だ。ヴィクトール様みたいに子供がいてもおかしくないように見えるというのはわかる。  僕にも、一時期結婚を考えていた女の子がいたことを思い出す。付き合っていた期間は短かった。決して嫌いになったわけではないけれども、僕はその子と別れざるを得なかったのだ。  理由は、その子が子供が欲しいと言ったことだった。子供が欲しい気持ちは今ならわかるけれども、僕はその子の期待には応えられない。なぜなら、僕は子供を作れる体ではないからだ。  そんな理由を話せないまま、僕はあの子に別れを告げた。しばらくの間は顔を合わせるのもつらかったけれど、気がつけばあの子は他の男といい仲になって子供を産んでいた。だから、それで良かったんだと思う。 「もしかして、良い相手がいないのかな?」  不思議そうに僕の顔を覗き込んでそう言うヴィクトール様に、僕は手を振って返す。 「あの、いなかったわけじゃないんです。 お付き合いしていた人は、いるにはいるんですけど」 「けど? どうして結婚しなかったんだい?」 「あー……その……孤児院の子の面倒を見るのでいっぱいいっぱいで、結婚する余裕ないなって……」  結婚しなかった理由をなんとか誤魔化して、ふと思う。僕があの子と結婚しないと決めたのは、子供が作れないからではないのではないだろうか。  なんとなく、他に理由がある気がした。けれどもそれがなんなのかはわからない。  わからなくて、じっとヴィクトール様と視線を合わせていたらだんだん胸が苦しくなってきた。  浅い呼吸を繰り返していると、ヴィクトール様が手元に視線を移して、布の袋を僕に差し出す。 「なんだか申し訳無いことを訊いてしまったね。すまなかった。 それで、忘れないうちに今月の分を」 「あっ、あの、ありがとうございます」  ヴィクトール様から今月分の支援金を受け取って、いつもお金の管理をしている箱にそのまま入れる。お金の勘定をするのはヴィクトール様が帰った後だ。  ふと、事務室の机の上に野原で摘んできた花の束が置かれているのが目に入った。孤児院の女の子達のために、ドライフラワーを作ろうと思って僕が摘んで来たものだ。  花の束の中から一輪、鋭い棘がまばらに付いた白い花を手に取ってヴィクトール様に差し出す。 「あの、よかったらこれを。 野原で摘んで来たものですが、いつものお礼に」  僕の言葉にヴィクトール様は驚いたような顔をしてから、白い花をそっと受け取って笑う。 「ありがとう」  支援金を受け取った一週間ほど後、孤児院の前で近隣の人向けの炊き出しをした。  近隣の人向けと言っても、貧民が住んでいる区域はここから離れた場所にもある。この孤児院で炊き出しをしているという話を聞いている他の区域の貧民も、わざわざやって来たりしているけれども追い返す必要はない。  大きな鍋で年嵩の子供達に具が沢山入ったスープを作って貰って、僕と近所の人とで炊き出しに来た人達に配る。  その時だった。聴き慣れた馬車の音が聞こえてきたのは。 「今日は炊き出しの日だったのか」  驚いたようにそう言って、ヴィクトール様が馬車から降りてくる。 「道理で、道中このあたりの住人を見なかったわけだよ」  そう言ってヴィクトール様はなにも疑問に思う風もなく、僕や孤児院の子達になにをどう手伝えばいいかを訊いて、スープを配るのを手伝ってくれた。  貧民のひとりが口を開く。 「なんで貴族様がこんなところに?」  この人は他の区域の人だ。ヴィクトール様を見るのははじめてなのだろう。訝しんでいる。  ヴィクトール様は嫌そうな顔ひとつせずに答える。 「私はこの街の治安を守のが仕事だ。当然、あなた達が住んでいるところもね」  その言葉に納得できた人はどれくらいいるのだろうか。わからないけれども、炊き出しが終わった後、ヴィクトール様がその場にいた全員にひと月分の家賃になるくらいのお金を施すと、先程の貧民がぼそりとこう言った。 「いつでも来てくだせぇ」  それを聞いたヴィクトール様は、その貧民の手を握ってこう返す。 「ご協力感謝する」  その姿を見て、やっぱりヴィクトール様は正義の人なのだなと思った。  でも、僕にも、ミス・ゲシュタルトにも正義はある。  お互いお互いの正義に基づいて動いているだけなのに、どうして敵対しないといけないのだろう。どうしてもなにもない。お互い相容れない正義だからだ。  でも、お互い手を取り合えたらと願ってしまうのはどうしてなんだろう。
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