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間違い
しばらく待っても来ない男を待っていたリンデルが、ついに待ちきれず外へ出て男を探し始めて、ロッソは自身の行いが悪手だった事を知った。
今にも泣き出しそうな顔で、名も知らない男を探す、こんな取り乱した勇者の姿を他の者に見られるわけにはいかない。
ロッソは何とか強引にリンデルを宿の部屋へと詰め込むと、必ず男を連れて来ると誓って、宿を飛び出した。
村中を駆け回り、男を宿まで連れて来た時、リンデルは既に立つこともままならない状態だった。
男を部屋の前に待たせて、先に勇者の様子を見ようと扉を開けたロッソは目を疑う。
床に蹲り、冷や汗なのか額にびっしりと汗を浮かべて、青白い顔でカタカタと震えるリンデルに、ロッソは思わず叫び駆け寄った。
「勇者様!?」
開け放たれたままの扉から、男が静かに部屋へ入り、扉を閉める。
「リンデル……」
男の落とした小さな声に、リンデルが顔を上げる。
金の瞳が潤み、安心したような表情を浮かべる。
「あ……カー……ーーっ!!」
何か言いかけたリンデルが、強烈な痛みに襲われ、苦痛に顔を歪ませる。
頭を抱えて床へと崩折れるリンデルを、ロッソが支えた。
男の事を想う度、リンデルの頭には、繰り返し頭蓋ごと砕かれるような強い痛みが降り注いでいた。
「もういい……。もう、思い出さなくていいんだ」
男は、リンデルの傍に膝をつくと、前後不覚に陥っている青年の背を優しく撫でる。
「……すまないな……。辛い思いをさせて……」
男が片目を隠していた布を片手で器用に解く。
その下から現れた美しい空色の瞳に、ロッソは息を飲んだ。
「リンデル、俺を見ろ」
優しく囁かれた声に、顔を上げかけた青年が、強く目を閉じた。
「嫌だ!」
ロッソは、この青年の口から、そんな単語を初めて聞いた気がした。
愚痴や弱音を耳にすることは度々あったが、それでも『嫌だ』などと口にするリンデルの姿を見たのは初めてだったのではないだろうか。
驚きを浮かべるロッソを脇に、男はリンデルの髪へと指を伸ばした。
「困ったやつだな……」
今も痛むだろう頭を、男は慰めるように撫でる。
「俺はもうお前の前には現れない。探さなくていい。俺の事は、もう忘れるんだ」
男はゆっくりと諭すようにそう告げると、立ち上がる。
「お前が元気で、俺は嬉しかったよ……」
そう言い残して歩き出そうとした男の足を、リンデルが全力で掴んだ。
「っ、お前……」
驚きと悲しみが混ざった、まるで痛みを堪えているような顔で、ギシリと軋むように振り返る男。
「行かな……で……」
リンデルの声は、切なげに涙を滲ませていた。
「離れたく……な……い……」
縋るように男を見上げた青年は、視点の定まらない金色の瞳から、大粒の涙を一粒零して、そのまま意識を失った。
がくりと項垂れる体をロッソが受け止めると、抱き上げようとして、その手がまだ男の足を離さず握り締めている事に気付く。
その指を解こうとして、あまりの力強さにロッソはまた驚いた。
指先が白くなるほどに握り込まれたその足には、きっとアザが残るだろう。
「すみません……」
男に謝罪の言葉を述べながら、ロッソはその指をなんとか引き剥がそうとする。
が、リンデルの力は予想以上だった。
これ以上力を入れて、勇者が指を痛めないか、と不安そうな顔をするロッソに、男はベッドまで付き添うことを申し出た。
「この手は俺がなんとかする。ひとまずそいつを寝かせてやれ」
言われて、ロッソはリンデルを部屋のベッドにそっと横たえると、素早く脈や呼吸、顔色等を確認する。
それらに異常がない事を認めると、ロッソは男へ向き直った。
「大変……ご迷惑をおかけしました。お付き合いいただき、ありがとうございます」
男は自身の足を掴んだままのリンデルの指を、一本ずつ愛しげに撫でていた。
それに応じるように、リンデルの指先から力がじわりと抜ける。
その手を優しく持ち上げて、男はベッドに上げていた足を下ろした。
まだ名残惜しそうにリンデルの手を握ったままの男が、ロッソに視線を向ける。
「いや、俺の方こそ、迷惑をかけたな……。もう、お前達の前には……」
そう言って立ち上がろうとする男を、ロッソが止める。
「お待ちください。どうか、私に貴方と勇者様との事を教えてくださいませんか」
「……」
男は黙ってロッソを振り返る。
「俺がここにいれば、こいつが目を覚ましたとき、また辛い思いをする」
「…………私も、そう思っていました。けれど、間違いでした……」
ロッソが、後悔を滲ませながら答える。
そう。引き離すべきは、あの時、最初に手を払われた時だった。
あの時に、力尽くにでも二人を引き離しておかなければならなかった。
今では、遅すぎたのだ。
「今の勇者様には、貴方が必要です……」
自分の言葉が滲むのを、ロッソはどこか遠く感じていた。
「……そう、言われてもな……」
思いもよらない言葉に、男が困惑を浮かべる。
「この村にご家族が……?」
「いや、それは無いが……」
明らかに戸惑いを浮かべている男を、ロッソはもう一度見る。
歳の頃は四十を回っているだろう。
前隊長と同じ年頃だろうか。
リンデルの両親は幼い頃に魔物に食われたと、資料には書かれていた。
親族はいたようだが、ずっと連絡は取っていないはずだ。
何より、男の浅黒い肌と黒髪は、色白で金髪のリンデルとは全く違う場所で生まれたのだと思わせた。
黒髪……。そこまで考えて、ふと、リンデルが何かある毎に、ロッソの髪を触りたがる事を思い出す。
彼が、自身の髪を通して見ていたのは、この男だったのだ。とロッソは気付いた。
思い返せば、以前、薬を盛られた時だって、リンデルが求めていたのはこの男だったのだろう。
リンデルは、名も知らないはずのこの男を、なぜかずっと求めていた。
やはり、今、この状態の勇者様から、この男を引き離すべきではない。
ロッソは再度その思いを強めると、男から現在の生活状況を聞き出すことに尽力した。
男はこの村で一人きり、どこに所属することもなく暮らしていたらしい。
この村に留まる理由は、知り合いの墓がこの村の近くにあるという一点だけだった。
生活の糧を稼いでいた方法については占いのようなものだと言葉を濁していたが、あまり真っ当なものには思えない。
今はまた布の下に隠してしまっていたが、その左右で違う瞳の色にも、どこかしら不吉なものを感じさせた。
こんな、得体の知れない男を勇者の傍に置く事に、内心葛藤はあったが、何しろ補給部隊は明日には到着する。
ここを明日発たねばならない以上、この男を連れてゆく他に勇者の体面を守るための手段は無いと判断する。
男は、リンデルとの過去について、何一つ語ろうとはしなかった。
「それを知る事は、こいつのためにならない」
男にそう言われて、ロッソはそれ以上の詮索を断念した。
「ではせめて、お名前だけでもお教え願えませんか?」
ロッソの言葉に、男は一度開きかけた口を閉じて「好きに呼んでくれ」と言った。
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