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 お砂糖のような甘いお月様。  訳して「sugar moon」と言う。  私は婚約者から皮肉を込めてそう呼ばれていた。考えが甘く頭が悪いという理由でだ。 何ともまあ嫌みなニックネームである。私はそれでも彼の事が好きだったから文句は言わないでいたけど。 「やあ。こんにちは。今日も元気そうだね。シュガー」 そんな挨拶をしてきたのは婚約者もとい、ロベルトだ。私はうんざりとしながらもあらと声をあげた。ちなみに今私たちがいるのはロベルトの屋敷の玄関ホールだ。飴色に輝く木の手すりや吹き抜けになっていて日の光を通す天窓などはしゃれていて重厚な雰囲気を醸し出している。 「…こちらこそごきげんよう。ロベルト様」 にっこり笑顔で返事をした私にロベルトはふんと鼻を鳴らして眉を寄せた。 「相変わらずだな。そのドレスは安っぽい。化粧もけばけばしいし。どうにかならないのか」 「はあ。申し訳ありません。でも、このドレスは両親が私のためにと仕立ててくれたものですから。捨てるわけにもいきません」  反論をさりげなく言うとロベルトは苦虫を噛み潰したような顔をした。私は冷ややかな気持ちでそれを見ていた。彼と私とでは年齢が違うし身分も違う。  まず、私は子爵家の次女で年も十五だ。まだまだ子供である。背だけが高くて痩せっぽっちの体で自慢なのは両親から受け継いだ白金にも見える髪と薄い青の瞳くらいのものだった。  顔立ちも中の上くらいで美人で明るい姉や妹が羨ましくなる。しかも、学問は苦手で考えも浅はかだときた。これではロベルトに馬鹿にされても仕方がない。私は諦めの境地で達観する事でやり過ごしていた。  反対にロベルトは鮮やかな金色の髪と淡い水色の瞳の長身の美男だ。身分も侯爵家の長男で跡取り息子にあたる。年は私よりも五歳上で二十歳になっていた。  そんな私と彼が婚約したのは両親同士の取り決めによるものだ。侯爵家は若くて美しく従順な娘をロベルトのために探していたらしい。そんな折に借金で破綻寸前になっていた私の実家の子爵家が名乗りをあげた。 「我が家の長女であれば若いし従順だ」と。  侯爵家は借金返済を肩代わりする見返りとして私とロベルトの婚約を許可したのだった。 前を歩く彼に黙って付いていく。私が婚約をした時はまだ十歳くらいの子供だった。ロベルトは十五歳くらいで。五年前は彼も優しかった。なのに今はどうだろう。  私を憎々しい目で見てくるし態度は冷淡なものになっている。いつの間にこうなってしまったのだろうか。小さくため息をついた。 「…シュガー。お前はいつになったらその無愛想な面を変えられるんだ。いつも俺と会うと嫌そうな表情をしやがる」 「そんな事はありません」 「嘘をつけ。俺の前で笑った事もないくせに」  皮肉げに言われて我に返る。どうも、考え込んでしまったようだ。ロベルトは呆れたようにため息をつきながら前髪をかきあげた。 「まあいい。シュガー、せっかく来たんだ。今日は可愛がってやるよ」  私はその言葉にびくりと体が震えるのを抑えられなかった。また、あの嫌でたまらない時間が始まる。心にどす黒い闇が広がるような錯覚を感じた。 「…もう、許して。私は何かしましたか?」  そう訴えてみてもロベルトはにやりと笑うだけだ。私は鉄格子のついた侯爵家の地下室に閉じ込められている。そこには手枷と足枷があり、私の手首と足首にはめられていた。  ロベルトは馬用の鞭を持ってこちらに歪んだ笑みを向けている。私が逃げようともがけば、容赦なく鞭がおろされた。  ピシィと音がなり私の頬に鋭い痛みが走る。みみず腫のようになっているだろう。じくじくと先ほど打たれた場所が痛みを訴える。 「sugar moon。俺だけの月。憎らしいけど可愛い」 「ロベルト様?」  小声で呟いた言葉に私は何と反応していいかわからなかった。彼は一体何のために私を閉じ込めて自由を奪おうとするのか。その真意はわからなかった。  そうして、夕方になりロベルトは私を地下室から出して玄関ホールに連れていく。頬にあったみみず腫や他の傷は綺麗に消えている。ロベルトが治癒魔法を使ったからだ。私たちが住むこの王国には魔術や魔法が存在していた。といっても使えるのはごく一部の人間だけだが。 「シュガー。とりあえずは屋敷に帰るといい。明日、また来いよ」 「わかりました」  頷くとロベルトは機嫌よさそうに笑った。私は彼からは逃れられない。そんな強迫観念に囚われていたのだった。  私は地下室から出て玄関ホールにたどり着くと一礼をして自ら外に出た。地下室での事は誰にも言えていない。あくまで二人だけの秘密になっていた。私は鬱々とした気持ちを抱きながらも馬車に乗り込んだのだった。  自邸に帰ってくると真っ先に部屋へと直行する。侍女のアンナが心配そうに声をかけてきた。 「お嬢様。大丈夫ですか?」 「大丈夫よ。今は一人にさせて」  そう言ったらアンナはさらに顔を曇らせる。 「顔色が悪いですよ。お嬢様。ロベルト様と婚約なさってからは様子が変に思えるのです。何かありましたか?」 「…何もないと言ったって信じてはもらえないわね。わかったわ、話すから。その代わり、お兄様やお姉様たちには内緒にしてほしいの」  私は居住まいを正してアンナにロベルトとの事を説明したのだった。  そうして話を聞いたアンナは顔を青ざめさせながら両親だけには打ち明けるように進言してきた。私もそろそろ頃合いだと思っていたので頷いた。ロベルトとは婚約解消を視野に入れておいた方が良さそうだ。  私は外出用のドレスを脱いでワンピースに着替えた。お化粧も落として結っていた髪もほどく。身支度をすませると夕食をとりに食堂に向かった。既に両親や兄と姉、妹の二人の合わせて六人が揃っている。 「…おや。ジュリアじゃないか。こうやって夕食時に来るなんて珍しいな」  まず声をかけてきたのは父だった。私は曖昧に笑いながら頷くだけに留める。 「ジュリア。どうしたの。顔色が悪いわよ」  心配そうに侍女のアンナと同じ事を言ったのは母だ。それにも笑いながら頷く。こんなにも善良で温厚な両親に心配させている自分を情けなく思う。ロベルトから逃げられない事を不甲斐ないと思う気持ちもあった。 「ジュリア。黙っているだけじゃわからないわ。何かあったの?」  母が今度は疑わしげに尋ねてくる。どう答えたらいいものかと思案した。 「…あの。心配をかけてしまってごめんなさい。父様、母様。後で話すから。父様の書斎でいいかな?」  ぎこちないながらも言うと両親は私の言わんとしている事がわかったらしい。心配そうにしながら頷いてくれた。兄たちにも笑いかけると仕方がないと言いながらそれ以上、追及するのはやめてくれたのだった。  夕食を食べ終えた後、私は約束通りに父の書斎を訪れた。書斎には両親と何故か兄もいた。三人は一様に真剣な表情で私を見つめている。とうとうロベルトとの事を話す時が来た。  心臓がばくばくと鳴る中で深呼吸をしたのだった。 「ジュリア。夕食の時に言っていた事についてだが。お前の顔色が良くない事や後、手や足に何かの痣が見受けられた事からもしやと思った。ロベルト様の所に出かけるたびにそんな様子で帰ってくると侍女から報告を受けたんだ。何かあったんだね?」  父は確信をした様子で問いかけきた。私は来たと思って小さく息をついた。 「…確かにロベルト様に地下にある牢獄に閉じ込められた事はあります。手枷や足枷をつけられたり鞭で打たれたり。後、髪を引っ張られた事も何度かあったわ。けど、私は誰にも言ってはいけないと思っていて」  そう言った時に私の頬に生暖かい何かが流れた。あれと思い、手で触れてみたらそれは涙だった。次から次へと溢れてくる。止まらなくて袖で拭った。 「…ジュリア。すまない、気づかなくて。さぞかし怖かったろうに」  そう言いながら私を抱きしめてきたのは兄だった。兄のジョセフは私の髪を撫でながらすまないと謝ってくる。母も泣きながら私に近づいてきた。 「今まで気づかなくてごめんなさいね。ジュリア、ジョセフが言うように怖かったでしょうに」  兄が抱きしめていた私を離すと今度は母が抱きしめてきた。柔らかな温もりと懐かしい香水の薫りに気持ちがささくれだっていたのが落ち着いていく。私はしばらく母に抱きしめられたままでいたのだった。  あれから両親の方から侯爵家にロベルトとの婚約解消を申し入れた。侯爵家からは考えさせてくれと言われたらしいけど。      父が娘である私にロベルトがいわれのない暴力を振るっていた事や他に付き合っていた恋人がいた事を持ち出すと侯爵家は慌てて解消を受け入れた。 王城にも書類を提出したら見事に受理された。一週間後には私とロベルトの婚約は無事に解消されたのだった。両親共々、一安心したのは言うまでもなかった。  そうして、穏やかで静かな日々が戻ってきた。兄や姉たちは心配しながらも私の好きなようにさせてくれた。子爵家といえども我が家は決して金持ちではない。借金は侯爵家が返済してくれたけど。全額というわけではなかった。  父から聞いた話だと我が家に降りかかった借金はほとんどが詐欺によるものであることが判明した。しかもそれにロベルトが関わっていたのだ。どこまでも嫌な男である。ロベルトは侯爵家当主である父君にそれが露見して勘当されたと聞く。当然ながら、国王陛下からも処罰を受けて国外追放になったらしい。私はやっと悪夢から解放されたと安心した。  あれから四年が経って私は十九歳になった。婚約を解消してからは新たな縁談も来ることなく年月は過ぎ去っていた。 それでも周りでは変化があり、兄のジョセフが父の跡を継いで新しい子爵となった。既に婚約していた男爵家のご令嬢と結婚して息子と娘の二人が誕生している。私にとっては可愛い甥と姪だ。  妹たちも成長してすぐ下の妹が十七歳で一番末の妹も十四歳になっていた。三女である妹のアリアは社交界デビューを済ませていて婚約者の男性と二年前に結婚した。四女の末っ子であるアナも社交界デビューを控えていてダンスや礼儀作法の特訓に余念がない。後、兄のジョセフは二十三歳で姉のジェシカも二十一歳になっていた。皆、結婚をしたり婚約者がいる中で私だけは独身のままでいた。 「お嬢様。お客様がいらしていますよ」  そう教えてくれたのは侍女のアンナだ。私は頷くと玄関ホールに急ぐ。  そこにいたのは見知らぬ黒髪と青い瞳の男性だった。背が高くて兄のジョセフよりも長身であるのは一目でわかった。 「…おや。さては君がジュリア・サイモン嬢かな?」  問いかけられたが私は訳がわからなくて首を傾げる。 「あの。確かに私がジュリア・サイモンですけど。あなたは?」 「ああ。申し遅れてすまない。わたしはロベルトのかつての友人で名をアルベルト・スベルウッドという」  アルベルトと名乗った男性は私よりも四歳か五歳は上に見えた。なので、青年といえる年齢に男性はなる。 「あの。アルベルト様はロベルト様とご友人だとおっしゃいましたけど。私に何かご用ですか?」 「確かに君には用がある。その、ロベルトは君に暴力を振るった事で国を追放されたと聞いたが。本当のところはどうなのかと思ってね」  アルベルト氏の言葉に昔の暗い記憶が頭をもたげる。冷たい地下室に嫌な音を立てる手枷に足枷。湿っぽく誇り臭い空気がまざまざと思い出される。 「…暴力があったのは本当です。あなたはそれを聞いてどうなさるおつもりですか?」  小さな声で問いかけたがアルベルト氏には届いていたらしい。彼は片眉を上げて怪訝な表情をした。 「どうなさるも何も。ロベルトがろくでもない趣味を持っていたのはわたしでも知っている。そんな被害者である君の話を風の噂で聞いてね。もしよければ、わたしと婚約してもらえないかとこうやって来たんだ」 「はあ。もしや、私に対する同情か憐れみで婚約を申し込みにいらしたと?」  はっきりと言ったらアルベルト氏は上げていた眉を戻して真顔になった。 「いや。同情とか憐れみで申し込みに来たわけじゃない。以前から君の話を聞いていてね。ロベルトが君を手放したくないと言っていたから興味はあったんだ」  私は耳を疑った。ロベルトが私を手放したくないとはどういう事だろう。混乱しながらも目線で先を促した。 「…まあ、そんな訳でね。わたしも遅ればせながら君に求婚しにきたんだ」 「え。いきなりそんな事を言われても」  私がそう言ってもアルベルト氏は引かなかった。彼は側に控えていた侍従に目線をやる。侍従は頷いて手に捧げ持っていた小さな箱をアルベルト氏に手渡した。 「まあ、まずはこれを渡しておくよ。婚約の証だ」  そう言いながら開けられた箱の中には見事なサファイアの指輪が入っていた。側に立っていた執事や侍女のアンナも驚きのあまり固まった。 「これは。申し訳ありませんがこんな高価な物は受け取れません。早急にお引き取りください」    私が手短に言うと執事が庇うように前に立ち塞がった。 「お嬢様のおっしゃる通りでございます。申し訳ありませんがお帰りいただけませんか?」 「……君はわたしであっても拒絶する気か。わかった、そちらが受け入れないのなら強行手段に出るまでだ」  アルベルト氏は踵を返すとかつかつと靴音を高く鳴らしながら自邸に帰っていった。私はどうしたものやらとため息をついたのだった。  その後、私の邸にアルベルト氏が一日と開けずに訪れるようになった。最初はうっとうしいと思っていたが一ヶ月もすると慣れたものになっていた。仕方なく彼の求婚を受け入れたが。  ロベルトとは似ても似つかない青年ではあった。いつも、真面目で折り目正しく律儀な性格のアルベルト氏に私は気を少しずつだが許すようになっている。今日も私の邸のサロンに来ては白薔薇の花束を渡してきた。 「やあ。君には白薔薇が似合うと思ってね」 「……いつもありがとうございます」  礼を言うと気にする事はないとアルベルト氏はいった。侍女に花瓶に飾るようにいって私はソファに腰かける。彼も同じようにすると甘い笑みを浮かべながらこちらを見つめてきた。 「ジュリアは今日も可愛いね。ロベルトの事は気にしなくて良い。それを抜きにしても君の事は本気だから」 「はあ。それはどうも。アルベルト様はご実家が公爵家だと伺いました。私のような身分の低い家の娘と結婚だなんて普通は反対されると思うのですけど」 「それも気にしなくて良いよ。わたしはあまり世間の噂は当てにしていないんでね」  そうですかと言うとアルベルト氏はにっこりと笑みを深めた。それを観察していたらふいに彼が立ち上がった。 「…ジュリア。そろそろ、返事を聞かせてもらいたいんだが」  私の顔を直視しながら問いかけられる。途端に心臓が速く鳴り出した。 「……ええっ。返事と言われましても」 「まあ、そんなに急ぐつもりはなかったんだけど。ロベルトがこちらに戻ってきても面倒だからね。早めに婚約をすませた方が良いと思ったんだ」 「そうですか。だったらわかりました。婚約をしましょう」  ロベルトの名前があがってすぐに私の口からは了承の言葉がするりと出てきた。アルベルト氏は満面の笑みで私を抱き締めてくる。 「やった!やっと、婚約が成立した。待った甲斐があったよ」 「で、でも婚約からですからね。結婚までは待ってください」 「わかっているよ。君を守るためには結婚しかないと思っていたから。嬉しいな」  意外な言葉を聞いて驚きのあまり固まってしまった私だった。  あれから、一年後に私はめでたくアルベルトと結婚した。ロベルトの目撃情報も聞いたけど私に実害はなかった。  結婚して公爵家の王都にある別邸に新居を構えた。そこで私とアルベルトは穏やかな毎日を送っている。 「…お嬢様。アルベルト様と結婚なさってようございました。後はお子様だけですね」  そんな爆弾発言をしてくれたのは長年仕えてくれている侍女のアンナだ。私は驚いて刺繍用の針で指を刺しそうになる。 「ア、アンナ。何を言うかと思えば。私たち、まだ結婚して三ヶ月よ。子供はさすがに早いわ」 「ですけど。すでに兄君様や姉君様にもお子様が次々と生まれておいでなのに。ジュリア様だけが売れ残ってしまわれましたから。つい、心配してしまうと言いますか」 「だとしても、アルベルト様はゆっくりで良いと言ってくださっているのよ。急がなくてもいいんじゃないかしら」  私が言うとアンナはそうですねと笑った。窓から見える澄んだ空にふと目をやる。ロベルトの与えた悪夢は未だに忘れる事はできていないけれど。それでも、今は振り返る事ができるようになった。  強くなりたいと願う。私はアンナと談笑しながら刺繍を再開したのだった。  ――終わり――
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