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昼食を済ませた俺は江東区に位置していているこの会社の喫煙室で休憩中である。
この時間がこの会社での唯一の至福の一時だ。
「あの糞野郎、今日も怒鳴りやがった」
「そうだな。聞いていた。いや、聞こえて来た」
同じ営業課の同期の間野大地はこの会社で唯一、本音が言える仲間だ。
同期というのもあって、一緒に休憩室で上司の愚痴を言い合うのが日課になってしまった。
「多分、電話の向こうから掛けている家庭に聞こえていたと思うな。あいつ、それ分かっていてやっているのか?」
「知らね」
「向こうへの対応が面倒臭くなるから、止めろよな」
「そうだな」
「そうそう、あの部長。来月、結果出さないと地方に飛ばされるかもしれないんだってな」
俺の勤め先は東京の本社だ。
地方の営業所は五つある。
それだけそこそこ大手という事もあるのだが。
「らしいね。まぁ、部下の管理能力不足って事でしょう」
「自分の管理も出来なさそうだからな」
「確かにあれじゃ、部下の掌握も出来ないよな」
「あいつ、毎日厳しい事言って部下に危機感を持たせて、奮起させるタイプだよな」
「そんな事されたら只でさえあれなのにこっちは更にストレスが溜まって、仕事所ではないっつーの」
「典型的なダメ上司だな」
「逆効果だよ」
「なぁ」
上司の愚痴は話題の絶好のネタだ。間野との会話は大体それが中心になってしまう。
「そう言えば、話変わるけどお前最近行っている?」
「いや、行っていないな」
学生時代から俺の中で合コンが唯一の愉しみだ。
しかし、あまりにも忙し過ぎて最近行っていないのだ。
煙草の煙が更に部屋に充満する。
「まだまだ、俺達女遊びしたい年頃だよな」
「まぁーな。でも知り合っても結局、LINE交換して、後日飯に誘って、OK貰っても暫く、頻繁に連絡しないと自然消滅になっちゃんだよな」
「そうだよな。俺なんかそのパターン五人はいたな」
「俺もその位かな」
労多くして功少なしとは正にこの事である。
「そう言えば、お前今日外回りは?」
時計にふと目をやると休憩時間がもう直ぐ終わりそうだった。
「ない」
そう答えて、俺達は戦場に戻って行った。
十三時、再び闘いが始まった。
佐々木も常に言っているように手当たり次第電話を掛けまくるのがこの会社のしきたりだ。
今日は外回りの営業には行かない日だ。
つまり今日一日中、ひたすら会社で電話を掛けまくるのである。
俺は早速、受話器を取りダイヤルを押した。
「もしもし、お忙しい所申し訳ありません。佐藤様の御自宅のお電話番号でお間違いないでしょうか?・・・・・はい私、ダイス・コミュニケーションズの茂木と言う者です。現在、御契約中のインターネット通信の見直しを御検討して頂きたいと思い、この度、佐藤様にお電話させて頂きました。・・・・・」
謳い文句はもう勘弁だ。
「・・・・・ええ、・・・・・はい、そうです」
釣り針に引っ掛かった。この獲物は絶対に逃さない。
「・・・・・現在、佐藤様の御自宅が使用している回線が光回線でしたら当社と同じとなりますので、屋外の回線工事は必要ありませんが、屋内工事の方はプロバイダが違いますので、必要となります。・・・・・ええ、現在、佐藤様が御契約しています他社のプロバイダが当社と同じ回線を使用しているのならば屋外工事は必要ありません。・・・・・その会社でしたら、当社と回線が違いますので佐藤様の御自宅に当社の光回線を引いて頂く事になります。・・・・・ええ、回線を引く為の工事をして頂く事になります。・・・・・ええ、申し訳ありませんが屋外工事をする必要があります。・・・・・ええ、工事の費用の方はですね、佐藤様の御自宅を拝見させて頂けないと正確な見積もりは出せませんが、回線工事、屋内工事合わせて基本料金は二万三千八百円です。・・・・・ええ、佐藤様の御自宅の配線の関係でそれに上乗せさせて頂く場合が御座います」
マニュアル通りに慎重に会話を進ませる。
「・・・・・ええ、・・・・・そうです。・・・・・有り難う御座います。では通信内容と料金プランと契約書の方を持参し、後日、担当の者が御自宅にお伺いさせて頂きますので、佐藤様の御自宅の御住所の方をお聞かせ頂いても宜しいでしょうか?・・・・・はい、栃木県芳賀郡芳賀町・・・・・二丁目三番地で御座いますね。承知致しました。有り難う御座います。では何日の何時頃、御都合が宜しいでしょうか?・・・・・ええ、・・・・・二十日の十時で御座いますね。・・・・・では二十日の十時頃に担当の者が佐藤様の御自宅にお伺いさせて頂きますので、今暫くお待ち下さい。・・・・・はい、失礼致します」
釣り上げた。本日、三匹目だ。安堵した俺は一息ついた。
この会社での仕事は完全分業制で電話営業は担当の者つまり、俺みたいな電話掛け掛かりがアポまでこぎつけたら事まで出来たら、契約と同義なのだ。
つまり、この時点で俺のノルマの契約数にカウントされるのだ。
そして、訪問営業の担当者は相手に契約書にサインをして貰った時点で、初めて受注決定となり、契約数にカウントされるのだが、電話営業がメインの俺のノルマには全く関係の事なのだ。
こんな事口が裂けても言えないが、俺は自分の仕事さえすれば後の事はどうでも良いと思っている。
そして、俺の会社みたいな電話勧誘をする会社から電話を掛けられた相手が最も気になるであろう電話帳に電話番号を載せていないのに何故、あんたの所の会社が自分の名前、電話番号を知っているのかと言うと、世の中にはそういう個人情報を独自に調べた名簿業者が存在し、そこから名簿が転売されているのだ。
そして、俺達みたいなセールス会社がそれを買うのだ。
これは法律的には名簿の販売自体は禁止されていない為、違法ではないのだ。
しかも、会社は個人情報の入手方法を相手に開示する義務はないので、俺達が買った名簿業者を訊き出す事は出来ないのだ。
しかし、名簿業者が不正な手段で名簿を入手していた場合には、苦情があった相手の保有個人情報の利用停止、又は消去を求める事が出来るのだが、俺達の取引相手の名簿業者は今のところ不正を働いていないからその心配はない今のところない。
そして勿論、名簿に載っていない家は無差別に掛けている。
そういう所は向こうから「もしもし、~ですが」と相手に言わせるように訊き出し、もし、それが最初に出来なければ、話の中で相手に自分の名字を言わせるようにするのだ。
しかしそれが出来ない時は大抵、アポはしてくれないから、どっちにしろ一緒という事になるのだが。
そして、そういった自宅はまた期間を置いて掛け直すのだ。
勿論、執拗に電話を掛けると相手に忿懣されるのだが、俺達はこれが自分達の仕事だから、そんな事、お構いなしである。
そしてその後、何とかアポまで扱ぎつけたら、住所も必ず訊かなくてはならない。
しかし、そもそもどうやって名簿業者が大量の個人情報を入手しているのか?
その方法は幾つかある。
例えば、その名簿業者で働く同窓生による学校の同窓会名簿や卒業アルバムの持ち込みである。
まぁ、一言で言えば裏切り行為である。
しかし、それで一人で何百人以上の者達の個人情報が手に入るので、有効な手である事には変わりない。
次に職場、団体、クラブに所属する職員や会員がその職場や団体、クラブに所属する職員や会員達の名簿を業者に売り込むのだ。
これも裏切り行為だ。
しかし、世の中にはこういった者達が少なからず存在するのだ。
そして、他の名簿業者からの取得もある。
つまり、お互いに知っている情報は教え合うという事だ。
勿論、自社が他社の入手した個人情報を一方的に金で買う事もある。
俺達の業界ではこうやって成り立っているのだ。
そして、俺達にとって一番の天敵は一般家庭だ。
主婦、主人どちらも会社名を言った瞬間に鬱陶しがられる。
何度も勧誘しても一般家庭は断られる事が多い。
まぁ、向こうからしてみればこんな電話、只の迷惑でしかない。
だから、最近の狙いは都市部の家庭より、田舎の年寄り共だ。
それも子供が独立して今は夫婦二人暮らしをしている年寄り達が獲物だ。
そ都市部の家庭よりも年寄り達の方が強引な勧誘に弱いからだ。
この会社の営業のエリア範囲は関東全域まで達していて、現在、それらが顧客の大きな割合を占めている。
虚業だと思うが俺はこの会社にいる以上、会社の方針に従わなくてはならない。
それが雇われ主側の責務だからだ。
入社してたてでまだ良識があった頃の俺は先輩や上司の意見に疑問も持ったし、反抗もした。
しかし、それが無駄な行為だと解るのにそう時間は掛らなかった。
その結果、今はすっかり慣れてしまってそんな事少しも考えないようになってしまった。
これもこの会社の社訓や理念に洗脳されて、染まってしまったのだと思う。
俺は勢いに乗って、再び電話を掛けた。
「もしもし、お忙しい所申し訳ありません。田中様の御自宅のお電話番号でお間違いないでしょうか?・・・・・はい私、ダイス・コミュニケーションズの茂木と言う者です。現在、御契約中のインターネット通信の見直しを御検討して頂きたいと思い、この度、田中様にお電話させて頂きました。・・・・・如何でしょうか?当社の料金プランは大変お安くなっていまして、ネット回線の繋がり易さも他社と比べて良く、通信速度も大変、お速くなっております・・・・・」
また、成功しそうだ。更に勢いは加速する。
「・・・・・はい、そうです。有り難う御座います。・・・・・現在、田中様の御自宅が使用している回線が光回線でしたら当社と同じとなりますので、屋外の回線工事は必要ありませんが、屋内工事の方はプロバイダが違いますので必要となります。・・・・・ええ、現在、田中様が御契約しています他社のプロバイダが当社と同じ回線を使用しているのならば屋外工事は必要ありません。・・・・・その会社でしたら、当社と回線が同じですので、回線工事は必要ありません。・・・・・ええ、回線工事とは屋外から御自宅に当社のケーブルを引き込む工事の事です。・・・・・屋内工事とはまず、保安器と呼ばれるケーブルを雷等の異常電圧や異常電流から保護する為の機械を設置して頂き、そして、ONUと呼ばれる光信号を電気信号に変換する機械を設置させて頂き、それに屋外から引き込んだケーブルを繋ぐ工事の事です。・・・・・ええ、それから、ONUと端末をイーサネットでLAN接続して、インターネットが使用出来る様になります。・・・・・ええ、工事の費用の方はですね、田中様の御自宅を拝見させて頂けないと正確な見積もりは出せませんが、工事は屋内工事だけですので基本料金は一万四千三百円です。・・・・・ええ、有り難う御座います。では通信内容と料金プランと契約書の方を持参し、後日、担当の者が御自宅にお伺いさせて頂きますので、田中様の御自宅の御住所の方をお聞かせ頂いても宜しいでしょうか?・・・・・はい、東京都港区・・・・・八丁目七番地で御座いますね。承知致しました。有り難う御座います。では何日の何時頃、御都合が宜しいでしょうか?・・・・・ええ、・・・・・十八日の十三時で御座いますね。・・・・・では十八日の十三時頃に担当の者が田中様の御自宅にお伺いさせて頂きますので、今暫くお待ち下さい。・・・・・はい、失礼致します。」
俺は笑みを浮かべながら、電話を置いた。
この仕事に就いて随分、インターネットの事には詳しくなってしまった。
まぁ、それに関しては知識が増えて良かったと思っているが。
この会社では光回線とADSL両方を扱っているが、個人契約にお勧めしているのは光回線の方だ。
そっちの方が通信速度が速いからだ。
しかし、実際そうなのだが実はそれは方便で、こっちの方が利用料金が高く、工事が必要なのが本音だ。
しかし、法人の方は電話回線を必ず引いているので工事が不要で毎月の利用料金の安いADSL契約をしたがる会社が未だに多い。
最近はADSLでも通信速度も昔と比べ速くなり、この会社では法人用の契約では固定IPアドレスも最大16個まで選べる事もそういった事を招いている要因かもしれない。
俺は息を吐いてまた次の獲物を探した。
そして、四時になろうとした時だ。俺は眉間に皺を寄せた。
今日もこの時間になってしまった。
ブラックタイムだ。
俺の中でそう呼んでいる。
暫くしてやはり、今日も苦手な奴が近寄って来てしまった。
半年程前からこいつの中でこれがこの時間での毎日の恒例行事になっていた。
しかし、ターゲットは俺だけという訳ではなく、自分より年下の社員には誰でも話し掛けている。
しかし、今日の犠牲者も俺だった。
最近は俺ばかりだ。
理由は恐らく俺が先輩を立てる性格だからだろう。
しかし、それは当然、その性格を演じているからだ。
こっちしたら疲れるだけ良い迷惑だ。折角、調子が出て来たんだ。
邪魔をするな。
「茂木君、ちょっと良いかな?」
話し掛けて来たのは俺より三つ上の山野だ。
先輩でもこいつに敬意や畏敬はない。
「はい?何でしょうか?」
「この前、御検討中だった鈴木様の受注の件なんだけど、どうなったかな?」
昨日もその事訊きに来ただろ、お前。
そんな一日で状況が変わる訳ないだろう。
「すみません。昨日も報告させて頂いた通り、再度、お電話させて頂いたのですが、奥様の方は前向きなのですが相変わらず御主人の方が少し、料金プランの事で難色を示しているそうです」
「・・・・・まだ、時間が掛るという事・・・・・か。まぁ、御主人が渋っているならしょうがないね。でも僕が個人的に探したお宅だからね。慎重に頼むよ」
わざわざ溜めて言う事ではない。
格好付けたいだけだろう。
しかし、山野の言う事も一理ある。
こういった個人的な知り合いの個人情報を入手する場合は訊き元がこの会社の社員だと相手に分からないように、色々な人間を仲介させ入手するので難しいのである。
しかし、だからと言ってこいつはそれに執着し過ぎである。
「はい、頑張ります」
「・・・・・所で茂木君、最近恋しているかな?」
「いえ、なかなか仕事が忙しくて、そっちの方までは・・・・・」
いきなり何を言い出すんだ、こいつは?場を弁えろ。こいつに羞恥心というものは存在しないのか?
「恋愛を出来ないのを仕事のせいにしちゃいかんよ。いいかい?「我々人間は恋をする生き物である。恋とは他からの統御の魔力が覆い、それは恐怖である。それは今、自分の最も重要な仕事や趣味すらも歯牙にもかけなくなる」これは僕の持論だ。これ、仕事でも同じ事が言えるから大事だね」
このニキビが多い脂っこい顔で恋愛経験がとても豊富だとは思えないのに、この発言。呆れるわ。・・・・・
いや、その細い目と一重瞼で俺を見つめて、恋愛を語られるとだんだん笑えてきた。
「ええ、確かにそうですね。早速、参考にさせて頂きます」
俺は必死に舌を歯で噛んでそう言った。
「そうすると良いよ。じゃ、兎に角、鈴木様の件、頼むよ」
お前、まさかさっきの笑い話言う為にわざわざ来たのではなかろうな。
俺の気持ちは一瞬で滑稽から鬱憤に変わった。
「はい、頑張ります」
俺が堪えてそう言うと、山野は片手を上げて去って行った。
以前、俺とこいつの間にこんな事があった。
今も遺恨として記憶は消えていない。
それは俺がまだ入社して、一カ月の頃の事だった。
必死で仕事を覚えようとしていた俺にこいつはこう言って来たのだ。
「僕より仕事が出来るようになるまでは僕の言う事を訊いた方が良いよ。今はとても戦力にならないだろうからさ」
確かにそうだが、これが右も左も分からない新入社員にわざわざ言うセリフか?
しかも、何故、お前だけなんだ。他にも営業の先輩はいるだろう。
しかし、これだけでは人間的未熟者でなかった俺は耐えられた。
次、会った時のセリフが決定打だった。
「君、営業の仕事向きの顔ではないね。それじゃあ、どうしようもないから早くこの仕事、辞めた方が良いと思うよ」
先輩だとはいえ流石にこれはないと思った。
入社したての社員に向かって、早く辞めろだと。
そういう発言をする神経が信じられなかった。
それ以来、俺はこいつが嫌いだ。
そして案の定、こいつから見て後輩の他の先輩達にも嫌われていた。
つまり、こいつの居場所は自分より後輩しかないという事だ。
それから俺は必死に仕事をしてこいつの予想を覆した。
しかし、それからもう辞めろとは言って来なくはなったが、相変わらずちょっかい出して来る。
暇さえ見付けては毎日さっきみたいに、立場を利用して優越感に浸りに来るのだ。
それから、二時間経った。
その間に俺は更に一件アポを取って、ホッとしていた。
しかしその直後、安堵から悲愴に変わってしまった。
また、今度は違う嫌な奴がやって来てしまったからだ。そいつの正体は俺より九つも上の主任の武藤だ。
「茂木、ちょっと良いか?」
「はい、何でしょうか?」
こいつはなにかとどうでも良い嫌みを言って来る事で殆どの部下から嫌われている。
声のトーンとこの顰めっ面を見ると、今日もなんか嫌みを言って来そうな雰囲気だと直ぐに悟れた。
「お前が昨日提出したこの資料のこの日付の・・・・・ここと、・・・・・ここと、・・・・・この部分。フォントがTimes New RomanじゃなくてCenturyになっているだろう」
武藤が昨日俺が提出した資料を持ち、人差し指を指しながら、難癖付けに来やがった。
「あっ、すみません」
「いつも注意しているだろう。全く、お前達はどうなっているんだ」
この会社のフォント規則は緩く、正直Times New RomanだろうがCenturyだろうがどっちでも良い。
違いは、只少し文字の大きさが違うだけで、文字の形は殆ど同じだ。
だから、この事について文句を言う上司はいない。
こいつを除いては。
理系の学部出身のこいつは数字のフォントがTimes New Romanでないと気が済まないらしい。
恐らく、学生時代にそう身に付いてしまったのだろう。
そんな事どっちでも良いと思っている文系出身の俺達からしてみれば良い迷惑だ。
「すみません。今直ぐ、書き直します」
そんな細かい事、正直どうでも良いだろう。
自分の仕事が上手くいかないからって、部下に八つ当たりするな。
「そのセリフ、いい加減聞き飽きたな」
「すみません。今度から気を付けます」
「また、今度からか。それも聞き飽きたな。もうちょっと、俺の話を真剣に考え、聞き取れ」
俺がそんな事、聞き取るより、お前が大口の契約を取れ。
お前、この一週間でまだ一件しか取っていないだろう。
さっき、成績表確認したぞ。
「すみません。俺まだ、これだけではなく今日中にやらなければならない事が山程あるので」
「何だ、その態度は。・・・・・全く、相変わらず口だけ一人前だな」
大きなお世話だ。さっさと向こうに行け。お前の性癖のせいでこっちは更に仕事が増えるんだ。
「はい、早く、武藤さんみたいに仕事が出来るように頑張ります」
「まぁ、その心意気だけは買うがな」
そう言って、難癖野郎は去って行った。
ストレスが溜まる。
何故、俺がこんな仕事も碌に出来ないような奴を立てないといけないのか。
その歳で未だに主任止まりなんだ。
同期はもう単独従業員数五百人も満たないこの会社ではエリアマネージャー当たりにとっくに昇進しているだろう。
要するに出世レースから落ちた負け組が自分より立場が下の者に八つ当たりしているだけだ。こっちにしたら良い迷惑だ。
早く、こいつを黙らせるだけの大きな契約を取りたい。
そんな事を思いつつ、俺は仕事を再開した。
それから、暫く経った。定時を過ぎても、俺はまだ会社に残って仕事をしている。
これがこの会社では当り前になっている。
周りにいる人数は昼間と殆ど変っていない。
しかし、誰も文句を言わずに黙々と仕事をこなしている。
他人から見れば、不気味な集団だと思われるのは避けられないだろう。
そして、それから一時間経った。
「・・・・・では十九日の十時頃に担当の者が井上様の御自宅にお伺いさせて頂きますので、今暫くお待ち下さい。・・・・・はい、失礼致します」
今の時刻は十九時三十二分だ。
そして、今の獲物獲得で今日七件目のアポだ。
よし、もう帰ろう。
俺はディスクの上の物を整理し、帰宅の準備を急いだ。
しかし、そんな時だった。
また、嫌な奴が話し掛けて来てしまった。
山野の方だ。
この時間にもたまにある。
全く、いい加減にしろよ。
「茂木君、今日はもう帰りなの?」
「ええ、そうです」
ノルマを達成していないお前はまだ帰れないだろう。
どうだ、羨ましいか。
ざまぁみやがれ。
「それは良いね。只、今日は偶々上手くいっただけだという事は忘れないで、また明日から謙虚に仕事に励んでね」
契約が取れない腹いせは止めろ。
「ええ、肝に銘じます」
「そう言えば明日の事なんだけど・・・・・」
どうせいつもみたいにどうでも良い話に決まっている。
このまま勝手に喋らせておけば、話が長くなりそうだ。
「すみません、俺ちょっと用があるのでお先に失礼します」
「あっ、そうなの?もしかして合コン?」
「そうだったら、良いのですが。はははははは」
「あら、残念。君に幸あれ、アーメン」
つまりはこんな変な奴もいる会社である。
正気だったのか?
こいつを採用した人事担当だった奴は。
もう、さっさと逃げよう。
「有り難う御座います。では今日はこれで失礼致します。お疲れ様でした」
俺は丁寧に挨拶を済ませ、残っている連中に「お疲れ様でした」と言い、足早に会社を後にした。
こんな奴に付き合っているつもりは毛頭ない。
時間の無駄なだけだ。
十九時四十三分、やっと今日も長い戦いが終わった。
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