君と出会ったこの場所で

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君と出会ったこの場所で

 雨上がりの空は雲の合間から射し込む光と分厚い影が交差して、どこか異質な情景を生み出していた。止んだからと言ってじめじめとした湿気まで無くなるわけではない。さっきまで次々と落ちてきていた涙のような大粒の雨の名残も街のあちこちに見える。  その中を春馬は、右手に持った傘で不規則にちょんちょんと地面をつつきながら退屈そうに歩いていた。 「つまんない……」  背中に背負ったままの黒いランドセルが心なしかいつもよりも重く感じて、春馬の足取りは自然と遅くなっていく。つい数分前も通ったばかりの道を引き返す今の春馬はきっと端から見れば滑稽だろう。 「別にいいし! おれは一人で遊ぶから」  暗い気分を切り替えるために春馬はわざと大きく声に出した。  兄である伊吹は来月から受験生というものになるらしく常に忙しくしている。塾という所に出かけているか部屋に籠っているかのどちらかで話す機会もほとんどなくなってしまっていた。先ほど偶々帰宅時間が重なって嬉しくなり遊ぼうと春馬は声を上げたのだが、冷たくあしらわれたためそのまま飛び出してきたのだった。  兄ちゃんなんかもう知らない、と歩みを速める。目的地なんてないのだが、迷いなく進む足が歩くのは慣れ親しんだ通学路で。そのことが何だか悔しくなって春馬は道を曲がった。  知らない道をヅカヅカと歩いていく。現れる分かれ道を全て勘で選び突き進む。見知らぬ店に見知らぬ家。まるで探検をしているみたいだった。 キョロキョロと辺りを見回しながら春馬は歩いた。その結果、出た場所はひらけた丘だった。  鮮やかな緑で覆われた地面。そよそよと春馬の髪を、服を揺らす風。小さく見える他県の有名な山。そして何よりも目立つのが。 「うわっ、でっかい桜だな」  丘の上、中央に立つ大きな大きな木。  所々ピンクに染められたそれは花にさほど興味のない春馬でもよく知っている桜だった。  思わず駆け出した春馬は木の下まで行くと、その太い幹に手を触れさせた。今まで見たことがないほど大きく丈夫な木。四方八方に伸びる枝は人が何人乗っても簡単には折れないだろう。そう思わせるほどの太さだ。 「すっごいなあ、こんなとこあったんだ」  春馬はしばらく夢中で木を見上げていたが、そのうち首がつらくなってきて地面に座り込んだ。雨のことを思い出し一度ハッと腰を上げかけたが、雨上がりにも関わらず全く濡れていないことに安心して再度体を沈める。 「あーあ、暇だ」  ランドセルを草の上に放り春馬は寝転がった。正面には空。そして視界をチラチラと舞う桜。心地よい風。結構いい場所を見つけたと春馬は嬉しくなるが、暇なことには変わりなかった。家を出てきた時のことを思い出し顔をしかめる。  伊吹はちっとも構ってくれないし、同級生と遊ぼうという気分とはちょっと違う。ゲームもあまり好きになれない。加えて家にいたら宿題という面倒臭いものが引っ付いてくる。 「なんか面白いことないのかよっ!」  辺りに響いた春馬の声。そのまま誰にも知られずひっそりと空へ吸い込まれていく。  はずだった。 「ねえねえ」  不意に真上から降ってきた声に驚いた春馬が目を開けば。 「キミ、なにしてるの?」  鼻先が触れそうなほど近くに逆さまの顔があった。 「うわあっ!」  叫び声を上げて春馬は飛び起きた。頭がぶつかる寸前、さっと素早くそれを避けたのは一人の少年で。 「わあ、びっくりしたー」  言葉とは裏腹にニコニコと、しゃがみこんだ体勢のまま膝に肘をつき頬杖をついて人懐こく笑う。ランドセルこそ背負っていないけれど、春馬と同い年くらいの容姿をしていた。 「はじめまして。ねえねえ、ここで何してたの?」  興味深そうに春馬を見つめ細められたその瞳には好奇心や期待といった明るい光が浮かんでいて。  少年の視線に春馬はごくりと唾を飲んだ。 「だ、だれ……」  さっきまで誰もいなかったはずなのに一体どこから。いつの間に?  混乱する春馬の前で少年は変わらず穏やかな笑みを浮かべている。 「キミ初めて見る子だね。迷子? それならあの道を行けば大通りに繋がってるはずだよ。あ、それとももしかしてお昼寝? わかるよ、ここは気持ちが良いもんね。でも今日は晴れてないからあんまりだと思うけどなあ。晴れの日はもっとずっと心地いいんだよ。最近はあんまり人が来ないんだけどね。知ってる? ここも昔は人気のスポットで春にはいつも……」 「ちょっ、ちょっと待った!」  止めなければ延々と話し続けていそうな勢いの少年に慌てて春馬はストップをかけた。 「別に昼寝じゃないし、迷子でもないし!」 「あれ、そうなの?」 「そうだよ。おれはそんな子供じゃない、誰か知らねえけどバカにすんなよ!」 「そっかあ……。一緒にお昼寝できるかなって思ったのに残念だな」 「はあ?」  春馬はあんぐりと口を開けた。怒ったつもりなのに全く怯えないどころかずれた返事が返ってきた。なんか変なやつだ。こんなやつ同級生にはいない。何だこいつ。 「おまえ大丈夫? こんな外で昼寝なんか普通しないだろ?」 「え、なんで?」 「なんでってそれは……」  きょとんと小首をかしげて聞いてくる。あれ、そういえば何でだっけと春馬は思考を巡らせる。 「じょ、常識ってやつだろ!」 「そうなの? なんで?」 「え、えっと……そ、外だと危ないかもだから……」 「ここは危なくないよ。危険なものなんてなーんもないもん」  ほらと大きく腕を広げる少年。 「ここはお昼寝にピッタリだよ? お日さまが温かくてふわふわしてて。穏やかな風が揺れる。人の声がしないのは残念だけれどそれでも十分いい場所だよ」 「……いつもここで寝てるのか?」 「うん!」 「なんで? 絶対布団の方が気持ちいいだろ。ここまで来るだけで疲れるじゃんか」  そうかな、と少年は首をかしげている。 「うーん、一番落ち着く場所なんだけどなあ」 「落ち着く?」 「これだよ」  不意に少年が立ち上がった。  軽い足取りで桜の木に近付き、さっきの春馬と同じように手を触れさせる。  その時、強く風が辺りに吹き付けて春馬は思わず目を瞑った。 「うわっ、なんだよ……!」  なかなかおさまらない風に苛つく。目元を腕で覆いながら僅かに目を開いて少年の方を見て。  春馬は息を飲んだ。  風に乗せられ激しく舞う桜。その中で少年は微動だにせず木を見上げていた。立っているのもやっとだというのにその瞳は真っ直ぐで。けれどどこか切な気で。  桜吹雪が落ち着いたころ、春馬はようやく腕を下ろした。しっかりとした足元にホッと息を吐く。けれど少年から目を離せなかった。  穏やかになった風に揺れる栗色の髪。彼の周りを踊る桜の花びら。二人の他に誰もいない緑に包まれた丘。そして、目の前にそびえ立つ大きな大きな桜の木……それはまるで一つの絵画のようで…… 「この木がここにあるから。だからここが好き」  少年はフッと目元を和らげた。愛しいものを見るかのように優しい光が瞳に浮かぶ。 「ここが、ボクの居場所なんだ」  そう口にして彼は春馬を振り返った。えへへと少し照れ臭そうに笑う彼の横顔を夕日が染める。さっきまでとは別人のような彼の雰囲気に春馬は戸惑ったように瞳を揺らした。 「さ、今日はもう帰った方がいいよ。えっと……」  少年がこてんと首をかしげる。 「ねえ、キミの名前は?」 「春馬」 「そう、じゃあ春馬」  またねと手を振る少年。もう帰る時間なのかと辺りを見渡せば確かに暗くなっていて、いつの間にこんなに時間が経っていたのかと春馬は驚いた。 「おまえは帰らないの?」 「帰るよ。春馬が帰ってからね。誰かに見送られるのは苦手なんだ」 「へえ、やっぱり変わってるな」 「そうかな?」  近くに放ってあったランドセルを再び背負い春馬は少年と桜の木に背を向けた。一歩二歩と歩いていく。ずいぶん適当に歩いてきてしまったけれど帰り道はわかるのだろうか、なんて少し不安になってから、あることに気が付き少年を振り返った。 「なあっ!」  春馬を見ていたのであろう。すぐに少年と目が合った。 「おまえの名前は?」 「ボク?」 「まだ聞いてない」  きょとんと大きな目をさらに丸くして首をかしげる少年。なぜそんなことを聞くのだと言わんばかりにまばたきをしてから、花が綻ぶようにクスッと笑った。 「ーーボクは、サクラ」  ふわりと風が彼の細く柔らかそうな髪を持ち上げた。 「サクラだよ」  女子みたいな名前だな、なんて。言葉にしかけて春馬はすぐに口を噤んだ。目の前で少年は変わらず微笑みを浮かべている。優しく柔らかい、穏やかな雰囲気。まるで彼の周りだけが別の世界のようで。  不思議と、彼に似合う名前だと思った。 ◆◆◆  ただいまと声をかけながら玄関のドアを開けた春馬の視界に、段差に腰掛け靴を履く兄の伊吹の姿が映った。 「あ、兄ちゃん」 「……」  パッと顔を輝かせた春馬をちらりと一瞥して、またすぐに靴紐を結ぶ作業に戻る伊吹。冷たい。すっかりと忘れていた、学校から一度帰宅したときのことも思い出して。うっとショックを受けるけれど、そうだと思い直し春馬はまた嬉々として口を開いた。 「なあなあ聞いてよ兄ちゃん。おれね、さっきまで学校の近くにあった丘で……」 「そこどいて。出るから」  伊吹は聞く耳を持たず押し退けて出て行ってしまった。せっかく上がった気分が一気に沈んでしまい、春馬はふくれた。 「……つまんないの」 「あら」  リビングに続くドアがガチャッと開く。 「春馬おかえり。伊吹はもう出た?」 「うん。どこ行ったの?」 「塾よー」  でた、また塾だ。  ランドセルを下ろしながら、もういいってそれは! と一人呟く春馬。  つまらない。つまらない。つまらないーー  脳裏に別れたばかりの少年の姿が浮かんで、春馬は上着を脱ぐ手を止めた。 「……明日もいるのかな」  またあそこへ行けば、会えるだろうか。あのサクラとかいう不思議な少年に。  別に会いたい訳じゃないからな、桜を見に行くんだ、と誰にかわからない言い訳をして、春馬はリビングから自分を呼ぶ声に応え部屋を出た。 ◆◆◆  「春馬! また来てくれたんだね」  春馬を一目見てふわりと顔を綻ばせたサクラ。気まずくなって春馬は慌てて目を逸らした。本当にいるのかよ、と漏らした小さな呟きは幸いにも彼には届かなかったようだ。 「来てくれたって……別に、おまえに会いに来た訳じゃないし!」 「嬉しいなー。お昼寝する?」 「しないわ!」  おれは知ってる、これはマイペースってやつだ。と昨夜テレビで覚えたばかりのことを胸中で呟きつつ、春馬はサクラに近付いた。 「……あのさ、さっきから気になってるんだけど」 「なに?」  じっとサクラを見つめる。視線の先で不思議そうに聞き返す彼はやはりどう見ても、ただ桜の木に抱き付いているだけのようにしか見えない。 「おまえなにしてんの?」 「元気チャージしてる!」 「桜で?」 「桜で!」 「なんだそれ」  サクラが桜で?  なにも面白くないんだけど、と春馬は呆れたようた目でサクラを見やった。 「おまえってやっぱ変だ」 「春馬もする?」 「しないって!」  えーと残念そうにするサクラを無視して春馬は桜を見上げた。首を反らさないといけないくらいに大きい。改めて春馬は不思議に思う。なんで今までこんな立派な桜の木の存在に気が付かなかったのだろう? 「なあ、この木ってなんでこんな大きいの? 学校とかにあるのとは全然違うじゃん?」  春馬の視線の先を追い、ああ、とサクラは頷いた。 「ずっと昔からあるんだって」 「昔ってどんくらい?」 「この桜は今から二千年と少し前だよ」 「えっ、二千!」  春馬は目を見張った。今年でようやく十一歳になる春馬から見れば二千年というのは途方もない数字だ。 「そんな昔からあるのか……。だから太いし大きいのか」 「二千年あったらこれくらい大きくなるよ」 「へえー」  幹に回されたサクラの手も、半周どころか四分の一にも届いていない。子供だからというのもあるだろうけれどやはりこの桜がおかしいほど太いのだ。  しばらくサクラと木を眺めていた春馬は、ふと無言で木に近寄り腕を広げた。サクラの隣、まだまだ余裕のあるそこへ真似してピタリと引っ付く。 「やっぱり春馬もするんじゃん」  クスクスと笑う声にうるさいと頬を膨らませてから春馬は目を閉じた。 「……あったか……」  どうしてだろう。木なのに。ただの木のはずなのに、まるで人間の体温のように温かく感じる。抱き付くように回した手に触れる温もり。そのまま心臓の音まで聞こえてきそうだ。ただの木なのに。 「当たり前だよ。だって」  春馬は目を開いた。同じように木に抱き付きながらこちらを見るサクラの瞳と視線が絡む。  彼はふわりと微笑んだ。 「生きてるもん」  それはどこか誇らしげで、幸せそうな笑顔だった。 ◆◆◆  それからは。放課後、学校が終わるのと同時に春馬は丘へと毎日通った。 「あ、春馬だあ!」  どんなに速く行こうと走っても、決まってサクラはいた。春馬を見てフワリと嬉しそうに顔を綻ばせる。始めはそれが悔しくて先に着いてやろうと意地になっていた春馬も、今では完全に諦めてしまっていた。 「よっ、サクラ!」  笑顔で駆け寄り二人で時間を潰す。ふざけたり他愛のない会話を繰り広げたり、くだらない言い合いをしてみたり。思い切り笑い合った。  小さなプライドが邪魔して素直になれなかった春馬はすっかり消え、二人の仲は深まっていった。サクラはどういう存在かと今問われれば間違いなく、春馬は親友だと答えるだろう。それほどまでに楽しく、幸せな日々。  あっという間に出会いから一ヶ月が経っていた。 「春馬はさあ、ひまなの?」 「は?」  突然の質問に寝転がっていた春馬はポカンと口を開けてサクラを見上げた。 「なに、急に悪口?」 「ちがうちがう。春馬ここに毎日来てるからさ」 「それはサクラも同じだろ?」  まあねと笑いながらサクラも春馬にならって草の上に寝転がった。 「ボクはいいんだよ。でも春馬は学校で人気そうだから」 「人気って、おれが?」 「うん。だって面白いし明るいし、中心にいそうだよ」  そうかなと春馬は首をかしげた。確かにクラスでよく一緒にいるのはそういう明るい同級生が多いが、春馬は気が合うとは思っていなかった。むしろつまらないと感じているほど。何となく一緒にいるだけで会話の内容も全く興味が湧かないものばかりだし、友達だと言えるような関係じゃないと春馬は思っている。  そう言えばサクラは目を丸くした。 「ええ、それは結構冷たくない?」  まるでおかしいと非難されているみたいに感じて春馬はむっと口を尖らせる。 「別にいいだろ。どうせ来年卒業だし。おれの友達はおまえだけでいい」 「え、ボク?」 「なんだよ。嫌?」  サクラは起き上がりううんと勢いよく首を横に振った。 「嬉しいよ、すごく。嬉しい……!」  少し俯いて、えへへと本当に嬉しそうに笑うから。春馬は何だか照れ臭くなって目を逸らした。 「ほら、じゃあ別にいいだろ」 「でもでも、人との繋がりは大切にした方がいいと思うけどなあ。えっと、確か交友関係って言うんだっけ?」  春馬はさあと肩をすくめた。サクラは大人が話すような難しい言葉もよく知っているが、春馬はさっぱりだ。 「なあ、そういうおまえはどうなの?」  尋ねればボク? と自身を指差して首を傾けるサクラ。そうすると幼く見えて、大きな目も相まって女子みたいだった。 「ボクは普通だよ。人の繋がりは大事にしてるよ? 今でも会いたい人はたくさんいるしね」 「……ふーん」  頭上の桜を見ながら、何かを懐かしむかのように目を細めるサクラの横顔は別人のようで。何だか春馬は面白くなかった。 「もうこの話は終わりだ終わり。あーお腹空いてきた!」  勢いよく体を起こす。そういえば、今日の給食は昼休みに担任に呼ばれたせいで時間がなくておかわりできなかったんだった。  思い出した途端、一層空腹を主張してくる自身のお腹に手を置いて春馬はため息をついた。 「今度おやつでも持ってこようかな」 「おやつ……」 「ん、どうかしたのか?」  春馬が視線を隣へと向ければ、サクラが顎に手を置いてうーんと首をかしげていた。 「ボクあんまり食べないんだよね」 「えっ、そうなのか? お菓子とか家にないの?」  こくりと頷くサクラ。春馬にとっては衝撃的だった。 「そうなのか……」  家によって違うんだな。  そうだ、と春馬は顔を上げた。家にあったお菓子で、もらって特別な時のためにと大事にとっておいたものがまだある。  明日持って来てやろう。サクラもきっと喜ぶ。  そう決意した春馬は翌日放課後になってすぐに、いつもは丘へ向かうところをダッシュで家に帰った。 「お帰り、どうしたのそんなに慌てて」 「遊ぶ約束あるからすぐ出てく!」  靴を脱ぎ捨て慌ただしく部屋へと駆け込んだ春馬は、ランドセルを布団の上に放り学習机の一番下の引き出しを開けた。中から空き箱を取り出し蓋を開ければ、個包装のクッキーとチョコが入っていた。春休みに進級祝いとしてもらったやつだ。とっておいて良かったと春馬は息を吐いた。箱を抱え再び玄関へと戻る。 「行ってきます!」 「暗くならないようにね」 「わかってるー!」  そのまま駆け出そうとして、箱の中のクッキーが割れるかもしれないと気が付き早歩きで町を通り抜けた。 「あらー春馬くんじゃない」  声をかけられ春馬は足を止めた。振り返れば以前よく通っていた駄菓子屋の店主がちょうど店から出てくるところで。 「何だか楽しそうだねえ。お出かけ?」 「うん。友達のとこに遊びに行くんだ」 「そうかそうか、いいねえ。飴ちゃん持っていくかい?」 「えっいいの?」 「いいよいいよサービスさ。お友達にもあげな」 「やった、ありがと!」  サクラも喜ぶだろうな。  思わぬ収穫に春馬は嬉しくなって手渡された二つの飴をぎゅっと握り締めた。自然と笑みが溢れる。その様子を見ていた店主が眩しそうに目を細めた。 「春馬くんも変わったねえ」 「え?」 「明るく笑うようになった。ついこの間まではどこかつまらなそうに歩いていたのが、反対に最近では楽しそうに歩いてる。幸せそうだ」  よかったねと笑う店主。 「良いことだよ。毎日が輝いて見えるだろう? それを忘れちゃいけない。なくなってしまう時はあっという間だったからね」  あっという間だった。その言葉に春馬は違和感を覚え店主を見上げた。 「だった、って……失くしちゃったことがあるの?」 「ああそうだよ」  店主は悲しそうに笑った。 「春馬くんが生まれるよりも前にね。大きな地震で色々なものを失くしたさ。アタシだけじゃない、たくさんの人がね。だから」  ポンッと春馬の頭に手を置き優しい手付きで撫でた。 「春馬くんはその友達を忘れちゃいけないよ」  大切なんだろう? と。 「だったら忘れちゃいけないよ」  その手は温かかった。手だけじゃない。店主の瞳に浮かぶ光は温かく、まるで子を見守る親のような瞳だった。 「……わかった。忘れない」 「それがいいさ」  また今度遊びに来なと笑う店主に大きく手を振って、春馬は背を向けた。貰った飴をしっかりと握り締めて丘まで走る。  サクラに会いたかった。 「サクラっ!」  木に背を預け目を瞑っているサクラの姿を視界に入れ、春馬は丘を駆け上がりながら声を投げた。 「あ、春馬、今日は遅かっ……」 「見ろよこれ!」  ジャンと持ってきたお菓子を見せる。サクラは顔を輝かせた。 「これってもしかして、昨日言ってたお菓子?」 「そう。おまえにあげるために家から持ってきたんだ。ほら食べようぜ!」 「うん……」  春馬に勧められるがままにクッキーを手にしたサクラ。観察するように色々な角度で眺めてから、恐る恐るといったように口に運ぶ。 「っ、おいしい!」 「だろだろー? チョコも持ってきたぞ。あと飴も」 「んん、何これ!」  あっという間にクッキー一枚を完食したサクラに他のものも薦めれば、彼は躊躇うことなく手を伸ばした。美味しい美味しいと何度も言うから春馬は笑って自分の分も差し出した。 「気に入った?」 「うん、すごく。こんなに美味しい菓子が広まってるなんてすごいなあ」  緩みきった口元に僅かに染まった頬。キラキラと瞳を輝かせてサクラはありがとう春馬と笑った。  ……持ってきて良かったな。  幸せそうなサクラを、春馬は隣で頬杖をついてじっと、この二人きりの空間ごと脳裏に焼き付けるように目を細めて眺めていた。 ◆◆◆  ただいま! と勢いよく玄関のドアを開けた先、いつかと同じように伊吹が座り込み靴を履いていた。 「あ」 「……」  また無視をさせるのだろうと思い、春馬は何も言わずにスッと横にずれた。靴紐を結び終わった伊吹が脇に置いてあった鞄を手に取り、立ち上がってドアノブに手を掛ける。そして肩越しに春馬を振り返った。 「お前さあ」  てっきりそのまま出ていくのだとばかり思っていた春馬は、話しかけられたことに驚いて思わず目を丸くした。 「最近どこ行ってんの?」 「え?」 「毎日毎日、こっちがうざくなるほど楽しそうに帰ってくるじゃん」  楽しそう。  言われた言葉に春馬はパッと顔を輝かせる。  そう、すごく楽しい。前みたいにつまらなくなんてない。今は毎日が楽しい。だってサクラがいるから。 「新しく友だちができたんだ」  ちょっと自慢してやろう。春馬はそう思った。 「もう一ヶ月前だけど、学校の近くにある丘で会ったんだ。いつも僕よりも先に来てあの大きな桜の木の下で待ってくれてるんだよ!」  いいでしょ。羨ましいでしょ。サクラはおれの最高で一番の友達なんだぞ。兄ちゃんには絶対やらないからな。そんな誇らしい気持ちで胸を張った春馬を。 「はあ?」  伊吹は怪訝そうに見やった。 「お前何言ってんの?」  意味がわからない、と知的で静かな光を湛えたその瞳が細められる。 「あの丘に桜の木なんてないだろ」 「……え」  春馬は一瞬何を言われたのかわからなかった。  ない?  そんな訳ない。あんなに大きい桜の木があるじゃないか。 「兄ちゃんこそ何言ってるんだよ。ボケた?」 「一緒にすんな。ボケてんのはお前だ。ほら」  苛ついたように伊吹はポケットから取り出したスマホを手早く操作し、画面が見えるよう春馬の方に傾けた。 「これのどこに桜があるんだよ」  表示されているのは写真だった。集合写真らしきその中に今よりもずっと幼い伊吹の姿が写っている。皆手に何か筒のようなものを持っていて、笑顔でピースをしている人まいれば泣いてる人もいる。小学校の卒業の時に撮ったもののようだった。その背景、つまり撮っている場所は春馬にとっても馴染み深いあの場所。でも。 「そん、な……なんでっ!」  春馬はスマホを持つ伊吹の手を掴みぐいっと顔に近づけた。上から降ってくる文句を無視して写真を凝視する。なんで。どうして。 「木が、桜の木がない……!」  写っているのは確かにあの丘なのに。写っているのは木なんてない、何もないただの丘。満開になっているはずの桜の姿はない。春馬がよく知っているあの桜は、サクラが愛おしそうに話していたあの桜は、ない。 「なんで……」 「だから言ってるだろ。昔からあんなとこに桜の木なんかないって」  力の抜けた手を振り払いさっと自分の手を抜くと、伊吹は呆然と立ち尽くす春馬を見下ろした。 「何でそんな勘違いなんてしたんだよ。お前本当に大丈夫か?」  春馬は信じられない思いで、さっきまで伊吹のスマホがあった空間を見つめていた。何で。どうして。同じ言葉がぐるぐると頭の中を回る。  じゃあ、毎日のように見ていたあの桜は何なのか。桜は間違いなく丘にあった。ついさっきだって見てきたばかりなのだ。嘘なんかじゃない確かにあった。サクラにだって見えていた……  そこで春馬はハッとして顔を上げた。突然のことにまだ玄関にいた伊吹がうおっと声を漏らす。 「何だよ急に」 「……サクラ」 「はあ?」 「サクラは……?」  桜は、本当はなかった?  じゃあ、サクラは。サクラは?  桜を見上げる姿がとても様になっていたサクラは。元気をチャージ中だと木に抱き付いていたサクラは。春馬を見てふわりと笑ってくれたサクラは。よく不思議そうに首をかしげていたサクラは。美味しいとお菓子を幸せそうに食べていたサクラは。 「は、ちょっ、おい、春馬?」  次の瞬間、春馬は勢いよく外へ飛び出した。驚いたような伊吹の声が後ろから聞こえたが、春馬はそれどころではなかった。夕焼けに染まった街を無我夢中で走る。振り返ることなく走って向かう先は。 「サクラ、サクラっ……!」  嘘だなんて嫌だ。そんなの絶対に嫌だ。  春馬は走り続けた。  一番始めは適当に歩いた道を。その日の帰りは不安になりながらも記憶を辿りに慎重に歩いた道を。それからは期待を抱え、何度も何度も通った道を。  次第に視界が開けていき、フラフラと揺れる足に力を込め春馬は丘を駆け上がった。 「サクラっ!」  丘は、いつもと変わらなかった。鮮やかな緑で覆われた地面もそよそよと吹く風も、遠くに見える山も何も変わっていなかった。中央には大きな大きな桜の木。そして。 「春馬」  サクラが、いた。  いつもと同じようにふわりと目を細めて、柔らかい微笑みを口許に浮かべて。 「サクラ……」  数歩の距離をあけて春馬は立ち止まった。そんな春馬をサクラは静かに見つめている。  その足元に、影はなかった。  ドクドクと跳ねる心臓が、乱れた呼吸がうるさい。 「……おかえり、だね」  春馬の表情を見て全てを悟ったかのように。サクラがゆっくりと口を開いた。 「春馬は走ってばっかだね。髪が乱れてるよ?」  二人の側に立つ、大きな大きな桜の木。 「顔が怖いよ。何か嫌なことでもあった?」  あるはずの、大きな大きな影はなかった。 「……バイバイ、かな?」  じわりと視界が歪んできて春馬はグッと唇を噛んだ。  バイバイ。つまりそれは別れを示していて。この日々が終わる、サクラが……いなくなることを示していて。 「っ、サクラ……」  春馬の口から溢れるのは彼の名前だけだった。何度かはくはくと口を動かすも漏れるのは震えた息だけで音になってくれない。 「春馬」  フワリと笑う。その笑顔は間違いなく春馬に向けられているものなのに。壁に隔てられているかのように、春馬にはひどく遠く感じた。 「今日までありがとう。短かったけれど色々なものを知れた。すごくすごく楽しかったよ」  これでようやく離れられる。  サクラはそっと目を伏せた。 「……嘘、だ……」  春馬の口から縋るように発せられた言葉。祈るように、願うように発せられたその言葉に。 「嘘じゃないよ」  サクラは悲しそうに笑った。 「ボクはここにはもういない」  キツく噛み締めた唇から滲んだ血の味が口内に広がる。握り締められたせいで食い込んだ爪が春馬の皮膚をかいた。 「この桜も、全部……全部嘘だったのかよっ……。生きてるって言ってたじゃないか。二千年も、生きてるって」 「桜は本当だよ。本当に二千年生きてた。地震で失くなったんだ。だから今はもうないけれど」 「じゃあなんでっ、なんであるんだよっ。おれには見えてる。なんで見えてるんだよっ!」 「ボクが見せてるからだよ」  サクラの表情は変わらなかった。始めから質問を予想していたかのように淡々と答えていく。 「なん、だよそれっ……」  春馬の瞳が濡れた。 「友達じゃ、なかったのかよ」  おまえだけでいいと。春馬が言った時サクラはどんな気持ちだったのだろう。あんなに嬉しがっていたのも全部、嘘だったのか。 「騙してたのかよずっと」 「……春馬」 「うるさいっ! バイバイってなんだよ、いなくなるなよっ……ずっと隣にいろよっ!」  一歩近付こうとしたサクラを春馬は睨み付けた。溢れてくるのは意外にも怒りではなく、涙と悲しみと不安だけで。 「おれは、おれはっ……まだっ……!」  まだ一緒にいたいのに。 「ごめんね」  ぐちゃぐちゃの視界の中、不意に春馬の両手を包み込んだ温もり。 「本当のこと、言わなくてごめん。隠してごめん」 「っ……」 「でも今までボクが言った言葉は本当だよ」  友達って言ってくれて嬉しかったと。彼は微笑む。 「春馬が会いに来てくれるのが待ち遠しくて。一日なんてあっという間なはずなのにすごく長く感じてた」  ボクを思ってくれているのが嬉しかったと。彼は春馬の手を握る手に力を込める。 「素敵な日々をありがとう」  その手は僅かに震えていた。 「幸せな思い出をありがとう」  その瞳は僅かに濡れていた。  手が離れていく。咄嗟に春馬は引き留めようと追いかけた。 「待っ……!」 「ありがとう春馬」  桜の木の前で。振り返ったサクラの瞳は真っ直ぐで綺麗だった。桜が二人の間を舞う。 「バイバイ」  サクラは笑った。  泣きながら、笑っていた。そしてーー  静かに消えてしまった。  春馬はふらふらとその場に座り込んだ。  桜の木もなくなっていた。彼と一緒に消えてしまった様だった。その何もない空間を春馬は無言で見つめた。  全て始めからなかったみたいに、何も起きていなかったかのように。目の前に広がるただ開けた丘に、春馬の頬を熱いものが伝っていった。  初めて、自分の最高の友達だと思った人だった。親友とまで思った。彼がいるかもしれないとこの丘に通う毎日が楽しかった。くだらないことでふざけて笑って過ごす時間が特別だった。 『ありがとう春馬』  出会いは突然だった。  別れもあっという間だった。  もっとずっと、一緒にいたかったのに。 『大切なんだろう?』  いつかの駄菓子屋の店主の言葉が頭の中で響く。 『だったら忘れちゃいけないよ』  春馬はぐいっと袖でまだ乾かない目元を拭った。 「……忘れ、ない……」  まだ鮮明に憶えているから。 『春馬!』  確かにここにあった、彼の笑顔を。 『ここが、ボクの居場所なんだ』  声を。 『当たり前だよ。だって生きてるもん』  存在を。 「サクラ……」  おれの、親友。大切な友達。  出会ったことに後悔なんてない。二人で時を過ごしたことに後悔なんてない。  春馬は手を幹があった場所へと持ち上げた。あの日と同じように、手を触れさせるように。そしてぎゅっと目を瞑った。あの日の感触を、彼と一緒に過ごしたあほ桜の感触を思い出すように。  しばらくしてから再び開かれた春馬の瞳には凛とした光が戻っていた。真っ直ぐな力強い光。 「……またな」  彼に。サクラに、出会えてよかった。  春馬はそっと手を離し背を向けた。そのまま振り返ることなく丘を下りる。いつだってここには戻ってこられるから。終わりじゃない。別れじゃない。またね、だ。  春馬は顔を上げた。何度も通った道を今度は走らないで。一歩一歩ゆっくりと、けれど確かに道を進んでいく。  見上げた空に、一枚の花びらがヒラリと舞っていた。
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