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青い空、白い雲。緑の草むら、2段に積み重ねられた3本の土管。そして若干の木々。郷愁の感を漂わせる、昔はどこにでもあっただろう、殺風景な住宅街の荒野に残された、オアシスのような空き地。その隅に潜む1つの影。俺だ。内閣情報調査室(通称内調)係長、挟間祥吾。いわゆる若手官僚だ。それもエリート官僚・・・になり損ねた、どこにでもいる量産型だ。それでも腐っても官僚。本来なら霞ヶ関の内閣府庁舎6階にいるべき存在だ。
その俺が、空き地の隅から一匹の野良猫の様子を伺っている。手元の写真と同じ模様の黒ぶちの猫が、土管の上にだらしなく寝転び、のんびりと毛づくろいをしている。日向ぼっこなのだろう。ときおり可愛らしい鼻をヒクヒクさせ周囲をうかがい、退屈そうに大あくびをする。口をあけると立派な牙が見える。さすがは肉食。漂う長閑な空気。しかし長閑すぎて、こちらまでつられてあくびが出そうだ。猫はおそらく、まだ俺に観察されている事には気付いていまい。
俺は奴に気付かれぬよう、増援を待っているのだ。2名の増援を。面識のない増援だが、指揮官は俺だ。嬉しくもないが不愉快でもない。そんな思慮に耽っているうちに1人来た。警察官だ。猫から視線を外さず、視野の中で相手を値踏みする。がっしりした体格だが、柔和な空気を漂わせている。どこにでもいる駐在そのものだ。その駐在が自分の出で立ちに気付いて、緊張している。
そうだろう。黒いバーバリーのロングトレンチコートに、明らかに仕立て品と判る、瀟洒なグレーのスーツと同色のネクタイ。コートのボタンは全て外している。黒光りするエナメルの革靴。丁寧になめした七三分け。どうみてもこの空き地という場所に佇むは違和感だらけだ。逆の意味で職質されても文句は言えない。いや俺だって霞ヶ関から現場指揮官として急行してきたのだ。それだけヤバい事態なのだが、機密ゆえに伝えるわけにもいかない。そう、これは国防なのだ。
内調に連絡が来たのは3日前。警視庁公安部に泣きつかれたのだ。簡単に言えば奴らの失態だ。よりによって重要人物に服毒自殺を許すとは。許されまじ失態。ロシアから亡命してきたイヴァンナ・クライネフ博士。ロボット工学の女傑だそうだ。彼女が亡命した時、連れてきたのが1匹の黒ぶちのメス猫。名はゾーヤ。この猫が、カク秘中のカク秘レベルの大問題なのだ。外務省が入手した情報によると、この猫はクライネフ博士が母国で密かに製作した、精巧なロボットだというのだ。一見、普通の猫。だがその中身は最先端技術の塊。猫の毛を植毛したアラミド繊維の皮膚。マッキベン型人工筋肉。超小型ソフトアクチュエータ駆動のグラファイト結合骨格。そして最悪なのが動力源が超小型核融合炉の可能性がある、という情報だ。頭が痛くなる。これでは動く原子炉どころかテロリスト羨望の携帯型核爆弾と同義語だ。
正確な情報を得るため博士を拘束し、尋問した公安部。しかし彼女が母国を逃げてきた亡命者だという事実を失念するとは、なんという無能。国家に逮捕され尋問を受ければ、どんな地獄を見ることになるのか。彼女の脳裏を襲った絶望は想像に難くない。彼女が自死を選ぶ可能性すら想像できないとは。
我々内調にもたらされた「正確な情報」は、1枚のゾーヤの写真のみ。俺の任務は、この猫を秘密裏に捕獲するか、困難なら安全に配慮した上での、破壊。装備も準備した、と。アンチマテリアル(対物大型)ライフルでもなければ、破壊などとうてい無理だ。そもそも核融合炉の安全を保全しつつの破壊が可能なのか?無謀極まりない。日本の法律では官僚が銃を持つことも許されはていない。実質、俺にできるのは、捕獲オンリーだ。そして貸与されたのはA17L -022ネットランチャー。捕獲銃だ。もちろんポケットにしまえる大きさではない。これをトレンチコートのの内側に吊り下げてあるのだ。だから前ボタンは留めてないのだ。
そして、これでも諜報員の端くれの俺は、身分を明かせない。故に地元の駐在さんを増援として派遣してもらい、俺を警護させるのだ。職質から。
思考の最中も視線はゾーヤから離れない。
1匹の蝶がひらひらと踊るように土管に舞い寄ってくる。キハダモンシロチョウだ。どこにでもいる蝶。ゾーヤの近くまで来ると、猫の狩猟本能なのか、前足で叩き落とそうとする。蝶はひらりと舞う。繰り返し前足で追うゾーヤ。傍目には蝶とじゃれているようにしか見えないし、そうなのだろう。蝶の方は命がけの回避作戦の真っ最中だ。誤れば、死。しかし楽しそうに猫とじゃれているようにしか見えない。何度も何度も前足が空を切り、しかし蝶はからかうように離れては寄る。長閑だ。
駐在は来た。これで俺が潜む必要はなくなった。しかし、あと1人。まだ動くには早い。念のために周囲に目を配る。外国の諜報員どころか、誰一人ゾーヤの動向を伺う気配はない。まだどこにも察知されていないのか、それともこの猫はゾーヤではなく、俺の、というより内調の猫間違いなのか。残念ながらその可能性もありうる。この野良猫の仕草は猫そのもので、人口的な違和感はまったくない。しかし・・・。脳内は両方の可能性を同時に肯定し、また否定する。結論は、監視の継続だ。それしかない。だが俺の直観はこの猫がゾーヤだと継げている。内調の諜報力だって馬鹿にしてはいけない。俺も内調の実力を心から信頼している。そうでないと、大真面目に監視している俺が、あまりにも惨めだ。
そのとき、待望の3人目の増援が現れた。こっちが本命だ。射撃訓練すらしたことのない俺。自衛官じゃないから当然だ。ネットランチャーなど使いこなせるとは思えない。しかしその第一人者が、やっと来た。
大柄で小太りの、しょぼくれた50代。そうにしか見えない。髪型と言っていいのかも判らない、謎のツーブロック。服装も紺のチノパンに短い黒のダウンジャケット。その中はノーネクタイの、柄物の開襟シャツだ。見事に住宅街に溶け込む服装。誰がどう見ても近所のおっさんだ。自分が名前を明かせない以上、相手の名前も聞かないが、異名は聞かされている。保護課の留吉。トメだ。おそらく地元の保健所勤務。俺のことはショウと呼ぶように伝えてある。ただのノリだ。ちなみに駐在はイル。入間のイル。これもノリだ。この3人でゾーヤを捕らえるのだ。
トメが俺の方に、軽い会釈をしながら寄ってくる。さすがだ。スナイパーのイメージをしていたが、もしかするとマタギかもしれない。狩猟者特有の殺気を見事に消している。これならゾーヤも気付くまい。視線をそらさず、ネットランチャーを彼に手渡す。トメは散歩する、というより徘徊するていで、じりじりとゾーヤとの距離を詰めていく。イルは事情を知らなくても息を潜めて待機している。俺は変わらず猫から視線を逸らさずに、周囲に目を配る。
上空に気配。何か飛び込んでくる。一瞬、視線をそちらに向ける。燕だ。燕の急降下。そして即、急上昇。その嘴には、キハダモンシロチョウ。今までゾーヤと戯れていた奴だ。
なにか起こる。直感する。とたんにゾーヤがえづきはじめる。口を大きく開け、何かを吐こうとする。毛玉だろう。猫好きなら誰でも判る。実家の猫もそうだった。虎之助。三毛猫だ。もう何年も会ってない。凛々しい顔が目に浮かぶ。今度の休暇には会いに行こう。そんな思いが心を掠める。
異変が起こった。ゾーヤが口をあけたまま空を、燕を見据えたのだ。かすかな発射音。なんだ?その瞬間、びくりと燕が痙攣し、ゾーヤから少し離れた草むらの中に落下した。驚愕して落下地点を見つめる。トメもイルも、あっけにとられて草むらの方を見ている。
・・・・・・スペツナズナイフ。脳裏をよぎる。ロシアの特殊部隊スペツナズの伝説のナイフ。強化スプリング発射式のナイフとされるが、実物は誰も知らない。想像の、あるいは妄想の産物。だがこれは間違いなくスペツナズナイフだ。誰にも気付かれず、気付いた時は絶命する。戦慄が走る。ゾーヤは間違いなく兵器だ。トメが危ない!しかしその前にゾーヤの姿が消えていた。一瞬で姿を消したのだ。
慌てて携帯電話で上司の情報調査官に緊急連絡する。失態だ!猫は気がついた時には姿を消すのだ。猫好きなら誰でも知ってる。蒼白な顔で、事態を報告する。
改めて戦慄する。ゾーヤはスペツナズナイフのような戦闘能力を所持している。まだ他にもあるのかもしれない。しかしどこにでもいる猫と区別がつかない。誰かに拾われても、普通に猫にしか思わないだろう。しかし、体内には核融合炉。問題が大き過ぎるゆえ公表は出来ない。公表などしたら各国諜報部隊と内調の戦争になる。CIA、SVR(旧名KGB)、SIS(所謂MI6)モサド、他にも掃いて捨てるほどある。そして何より恐ろしいのはやはり中華人民共和国国家安全部。彼らに察知される前にゾーヤの行方を追えるか?追えるかではなく、追わねばならない。
大丈夫。まだ間に合う。まだ内調がリードしている。俺達3人はゾーヤを実際に目視しているのだ。俺ことショウが。トメが、イルが。
これから忙しくなる。この三人で事態の重大さを理解しているのは、間違いなく俺だけだが、これからはそうもいくまい。俺達はチームとしてゾーヤに相対せねばならないのだ。心に硬く誓い、二人を呼び集める。
戦いは、これからだ。
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