ミハルの特別なカレー

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石川支社に配属になって最初に目星をつけた、新規営業先の老舗酒屋のおやっさんは俺のことをいたく気に入ってくれて、うちの会社の新作ビールを入荷してくれると約束してくれた。何度も頭を下げながら「ありがとうございまっす!」と大声で挨拶すると、おやっさんは感心したように言った。 「兄ちゃん、声もはきはきしてるし、体も大きいし、ずいぶんと爽やかだねえ。野球部でも入ってたのかい」 俺は、苦笑いしながら、正直に答える。 「いや、学生時代に、演劇やってまして。それで声がデカいんだと」 「ほう、演劇ねえ。役者さんだったのかい」 「はい、恥ずかしながら、役者兼、大道具係を。そのときに発声を鍛えたり、走り込んで体を動かしたりしたことが、社会人になってから役立っているように思えます」 「そうかい、いいこっちゃ」 ルート営業の車の運転席に乗りこむまで、おやっさんは髭面の顔をにこにこさせて、俺を見守ってくれた。 車を発進させ、会社に戻りがてら、どこかで昼飯を食わないと、と思った。演劇のことなど、久しぶりに人に話したな、と思っているうちに、ふっと点が線につながるように、カレー食いてえな、と思った。 いまでは、もう食べることのできないカレーが食べたい。どこの店にも売ってないカレーが食べたい。 そのまま、俺の意識は、大学時代の演劇部の練習部屋に飛ぶ。男女が入り混じった熱気。古い練習部屋に染みついた汗とカビの匂い。あいうえおかきくけこ、と連綿と続く発声練習の重なる声。そして――安いから、という理由だけで、もやしと大根がふんだんに入った、大鍋いっぱいのカレー。 カレーの鍋をかき混ぜているのは、見知った懐かしい背中だった。ガリガリに痩せて、ぶかぶかのTシャツを着た、ひどく目つきの悪い女。忘れもしない。 女の名は、斎藤ミハルと言った。重たげな切りそろえた前髪。髪は背中を隠すほど長く、いつもひとつに縛っていた。そして鋭い三白眼でこちらをぎろりとねめつける。ああ、思い出してきた。ミハルは、劇団の主演女優であり、脚本演出家であり、また、飯炊き係でもあったのだ。
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