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1 知らない男
34歳の誕生日の夜は付き合って一ヶ月の彼と老舗ホテルのバーにいた。
彼と交際が一ヶ月続いた事が嬉しい。
ニコニコと隣に座る彼の横顔を眺めると、さっきまで笑っていた顔が強張っている気がする。
どうしたんだろう?
「妃奈子さん、もう、これ以上は無理だ。別れよう」
彼の言葉が胸に突き刺さる。
……別れる?
だって、私たちこの一ヶ月上手くやってきたじゃない。
私の事、好きだって言ってくれたじゃない。
そう喉元まで込み上がってくるけど、飲み込んだ。
やっぱりこの人も私に愛想が尽きたんだ。
そうだよね。こんな交際無理だよね。
「わかったわ。別れましょう」
私には引き留める権利はない。別れると言われれば終わりにするだけ。
私の言葉に眼鏡の奥の顔が悲しそうな表情を浮かべる。
「じゃあ」
スツールから立ち上がった時、「待って」と腕を掴まれたのは予想外だった。私に触れる事はタブーだと言ってあったのに……うっ、鳥肌が。
「は、放して」
「嫌だ。やっぱり別れたくないんだ」
腕を握る手に力が入る。とても振りほどけない。脈が速くなる。胃もムカムカして気持ち悪い。このままではマズイ。
「ずっと妃奈子さんに触れないように我慢していたが、大丈夫じゃないか」
全然、大丈夫じゃない。
胃液がこみ上がってくる。
逃げようとしたら、スツールから立ち上がった彼に抱きしめられた。
きついコロンの香りにますます気持ち悪さがこみ上げてくる。
もうダメ。限界。
次の瞬間、彼ご自慢のハイブランドスーツの胸元は私が戻した物によって汚れた。
「うわっ」と声をあげた彼に押されて、ふかふかの赤絨毯の上に尻もちをついた。
胸がムカムカして、すぐに立ち上がれない。
そんな私を置いて逃げるように彼はバーを出て行った。
悲しくなんかない。いつもの事だから。
だけど、惨め。
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