カーディナルレッドの夢 1

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カーディナルレッドの夢 1

 月莉と書いて「きらり」と読む。月莉はその名前がとても苦手だった。中学の頃までは名前が恥ずかしい、という理由でちょっとした家出までしたことがある。  高校では友達に本名は呼ばないように釘を刺してきた。幸い、つるんでいる2人は物わかりが良くて助かっている。 「ほら、出来たよ! 持っていきな!」  手早く調理したニラレバを皿に盛った月莉は中学生の妹に声をかけた。ちゃぶ台の脇でみんなのお茶を汲んでいた妹がすっ飛んでくる。 「えー、またニラレバ?」 「文句言うなら食うな。おい! まだかーさん寝てるのか! 叩き起こせ!」  バイトから戻ってすぐに料理を作る。これが月莉の日常だ。次はいりたまご用の卵を溶いてから塩としょうゆを少し入れる。  月莉の怒鳴り声にびっくりしたように頷いた小学生の弟が慌ててふすまを開け、ぐーすかと寝転けている女を起こす。それが月莉の母だ。  母、恭美(やすみ)。妹、羽紗(つばさ)。弟、礼夢(らいむ)。  そして。恭美以外はどう考えてもキラキラネームなのだが、名付け親である恭美は全く意に介していない。むしろ嬉しそうに名前を呼ぶものだから、3人とも文句が言えないのだ。 「かーさん! 起きないと飯、食いっぱぐれるぞ! 取り皿持ってけ」  ふすまの奥に声を投げてから、月莉は傍に来た羽紗に目配せした。りょうかい、と返事した羽紗が小皿を取ってちゃぶ台に並べていく。 「きらりしゃーん。怒りすぎ」 「寝ぼけてる場合じゃないっての! 早く、顔洗って来い!」  ふすまの間から這い出してきたのは下着姿の恭美だ。月莉は恭美に洗い立てのタオルを放った。頭でキャッチした恭美がのそのそと動いて風呂場に向かう。 「洗い替えの下着、置いてあるから着替えなよ! あっ、ヤバ。焦げる」  月莉は慌ててフライパンを振った。ギリギリセーフ、と呟いて焼けた卵を皿に移す。これでレバニラの調味料を消費出来た。 「かーさんってば! ちんたらしてっと遅れるって! さっさと来ないと味噌汁抜くぞ!」  手早く人数分の味噌汁を注ぎ分けた月莉は風呂場に向かって声を張り上げた。のろのろと恭美が姿を現した時にはもう、居間のちゃぶ台には夕飯がきっちりセッティングされていた。 「わーん! 月莉ちゃん、お味噌汁ー!」 「遅いからだよ。はい、いただきます」 「ひどーい!」  手を合わせた月莉が睨むと慌てたように恭美が手を合わせていただきます、と挨拶する。それを見てから月莉は畳の上に乗せておいた盆から味噌汁椀を取り上げた。 「ほら、今日は茄子の味噌汁。好きだろ?」 「やった! 月莉ちゃん愛してるー!」  恭美が嬉しそうに笑って味噌汁椀を受け取る。 「調子良いことばっか言ってると、また遅れるぞ」  いつからか月莉の口調は男勝りになっていった。多分、父親がいないからだろう、と月莉は自分で思っている。でもこのお陰で下手な男は近づいてこないから楽だ。  食卓はいつも賑やかだ。夕食だけはつけっぱなしのテレビを観ながらみんなで食べることになっている。今日はバラエティー番組がかかっている。たくあんをかじりながら月莉は何となくテレビ画面を眺めた。  月莉と恭美の食事は大体、15分くらいで終わる。よし、と頷いた恭美が再び寝室に使っている部屋に入って化粧を始め、月莉は自分と恭美の分の食器を急いで洗う。夕方はスーパー、夜はコンビニのバイトが入っているのだ。  食事を摂った後の恭美の動きは驚くほど早い。超速で化粧を終えたかと思うと、薬を入れるための100均ケースを月莉に見せる。 「今日はどれ」 「A-5」 「OK」  100均ケースにずらりと並べて入れられているのはネイルチップだ。それぞれに番号が振られていて、恭美の体調や顔色に合わせたものを月莉がチョイスする、というのがいつもの流れだ。  実はアタシも知ってんだよねー。  夜の仕事に向かう恭美を見送り、自分も急いで支度を調えながら月莉は昼間のことを思い出した。ルイ子の片手の薬指についていたネイルチップは、多分、Keiという作者が販売しているものだ。  Keiは男性か女性か判らない謎のネイル作家だ。月莉は普段からフリマアプリで安い日用品を探すのが趣味になっている。そこでたまたまKeiの作品を観て、恭美に丁度いいから、と買うことになったのだ。  準備を終えた月莉は玄関で振り返った。安普請の小さいアパートの玄関からは居間が丸見えなのだ。ドアを半分開けて月莉はいつも通りに言う。 「じゃ、行ってくる。あんたら、食ったらちゃんと片付けして、風呂入って寝ろよー」 「お姉ちゃん、いってらっしゃい!」  羽紗と礼夢に見送られ、月莉は自転車でバイト先のコンビニに向かった。ペダルを漕ぎながら昼間のことを考えてみる。  何ならアタシが連絡して似たようなネイルチップを……って、バレるな。  酷く悲しそうなルイ子の顔を思い浮かべてしまい、月莉はため息を吐いた。ルイ子がネイルチップにはまったのは高校に入ってしばらくした頃だった。初めてルイ子のネイルを見た瞬間、月莉はそれがKeiの作品であることに気がついた。ちょうど、少し前にSALEと称して格安で出品されていたことを知っていたのだ。  Keiの作品は独創的で、しかもとても美しい。事前情報がなくても気がついただろう。月莉はそう考えて再びため息を吐いた。ルイ子はKeiの作品であることを隠している。その気持ちは月莉にも判った。  Keiは大量生産はしない。一点一点、大事に作っているためか製作にとても時間をかけるのだ。今は受注以外の品を出すことは滅多になく、出ても大抵はすぐに売れてしまう。隠れファンの多い作家でもあるのだ。だから内緒にしておきたい、という気持ちはあるだろう。  逆の立場ならアタシもそう思う、と月莉は頷いた。
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