パールピンクの桜川

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パールピンクの桜川

 それは最初に服を脱いでベッドに戻った時に起きた。 「何それ。お前の爪、ヤバくね?」  その男とはすぐに別れたが、今でもあの言葉が胸に刺さっている。どうして機微を読めない男というのは、女が傷つくことを平気で口にするのだろうか。  私の爪は生まれつき、ずんぐりむっくりだ。父親譲りの指が幼い頃は嬉しかった。だが今はそれを半ば呪っている。  あの時もそれがコンプレックスだったから、きっちりネイルチップ……つけ爪を使っていた。たまたまテープが剥がれて左手の人差し指の爪本体が露わになっていたことに、あの男は目敏く気付いたのだ。  でも別れて良かったと思っている。あんなことを平気で口にする男にろくなやつはいない。私はそう断じてネイルチップに意識を集中した。  市販の可愛いネイルチップはたくさんある。私もデコレートされたネイルチップを使っていた。でもあの男に言われてから、私は爪の手入れをより一層、入念にするようになった。  幸い、私が勤めていた会社はネイルOKだった。だから会社の休憩時間に同僚たちとネイルの話も、見せあってどこで買ったという話も出来た。  でもそれも最初のうちだけだった。いつだったか給湯室で若い子たちが、私の陰口を言っていたのを聞いた。 「ちょー痛いよねー。ネイルのことばっか必死でキモいし」 「あれじゃない? この間、彼氏と別れたって話。だからって爪ばかり気にしてもねえ」  ……などなど。  人間、心の中で何を思っているかなんて判らないと思うけど、あれにはショックを受けた。  その程度で会社を辞めるのも腹が立つ。私はそれ以降、彼女達と爪の話をするの止めた。正直、彼女達の爪は生来のものがとても綺麗で、私のようにネイルチップを使っていない子の方が多かったのだ。  父譲りの爪は形の悪さもだが、私の爪はしょっちゅう端が小さく割れる。それを削ろうとしてもなかなか綺麗に出来ず、苛立って結局引き抜いて血まみれになることも多い。  会社の子たちにそんな話はしたことがない。コンプレックスがあるから。  私は目の前の透明なネイルチップに慎重にジェルネイルを乗せた。硬化する手間はかかるが、こうすることで剥がれにくく、しかも様々なデコレートが楽しめるのだ。  プチプラでゲット出来る材料で作れるのもお得感がある。硬化用のライトだけは買ったものの、それだけで好きに楽しめるのだから悪くない。  今では私の爪友はネットと雑誌だけになった。でもネットではネイルチップの話で盛り上がってるし、可愛いデザインを見ているだけでも飽きない。  特に年齢制限がないのがありがたい。あの男と別れて以来、男に縁がなく、しかもアラサーという私でも会社のように邪険にされることはない。……まあ、匿名で何を書いても説得力がないかも、だけど。  出来た。ライトで硬化したネイルチップには桜の模様が描かれている。ネイルチップに何度も描いてるうちに、かなり綺麗に出来るようになったと自負している。  この間、試しにハンドメイドフリマで販売したら即売れしてしまった。もしかして、私ってそっちの才能がある!? と、勘違いしそうな速さだった。多分、たまたまだろう。  でも私は他人を飾りたいわけじゃない。私は私の爪を綺麗にしたいだけなのだ。その1度きりで私はフリマから離れた。  ピンクと白のネイルで作った桜と川の模様。濃淡があって着物の柄のようにも見える。私は思わず出来映えににやにやしてしまった。  色んな店で見つけては買っているので、私の手持ちのジェルネイルはけっこうな本数になっている。デコレート用の資材も小さくカットして管理。  このまめさが他にも活きればいいんだけど。私は机に置かれたジェルネイルやキラキラしているホロなどを見て、そっとため息を吐いた。  会社に命なんか捧げてないから仕事はてきとうにやっている。明日出来るものは明日。定時で帰る。面倒なことは引き受けない。上司の八つ当たりに近い怒りも受け流す。  それで数年以上やってきた。時々、転職は考えるがやりたいこともないからいつも保留している。  社内恋愛なんか無理と判ってる。私の性格じゃどうにもならない。しかも社内でいつも顔を合わせてる男に興味も湧かない。  でも故郷の母はそろそろ結婚しろと煩く言う。判ってる、とその度に苛々しながら返事する。出来るもんならしてるってば! という心の声を抑えて。 「あ、しまった。やっちゃった」  硬化時間が長くなりすぎた。あちゃー、と呟いて私は失敗作のネイルチップをごめんね、と言ってゴミ箱に入れた。考えごとをしているとこういうことになるから駄目だ。  それから私は両手十本分のネイルチップを仕上げた。ネイルチップは消耗品だ。だから休日に作り貯めておかないといけない。私は黙々と作業を続けた。  途中、手洗いに立った私は、何気なく鏡を覗いて深い息を吐いた。確かに会社の子たちが陰口を言いたくなるのは判る。化粧映えしないおうとつの少ない顔。ぱっちりとはかけ離れたやぼったい目元。唇も荒れていて収集がつかない感じの顔だ。  もっとビタミン摂らないと。そう言いながら私は顔を洗って丁寧に手を拭いた。手が濡れたり汚れたりしていると、ネイルチップ作りに影響するのだ。  不意に爪が目に入る。  何もついていない私の爪はボロボロになっている。毎日毎日、着飾った爪は綺麗なのに、剥がしたらボロボロなんて笑ってしまう。私は手を光に翳して爪をまじまじと見た。  昔、父がふざけて私の爪の先を赤く染めたことがあった。何の花かは忘れたが、それを潰した汁を私の指先に少しだけつけたのだ。  それを見た私は綺麗になった、と、とても嬉しくなった。父がそんな私を見て満足そうに笑っていたのを思い出す。  父の手は働き者の無骨なもので、爪はいつも短く揃えられていた。深爪しては悲鳴を上げていた父をからかったこともある。でも父はそんな私を怒ったりしなかった。  どのくらい父と会話をしていないだろう。殆ど故郷に戻らない私は、電話では母と話すが、父とは話さない。元々、無口だったというのもあるが、父との会話は年々減っていった気がする。 「あれ……? なんで」  私の手の形が視界の中でぶれる。ネイルチップをつけるために削った爪先が白く濁った丸に見えてくる。  気付いたら私はしゃがみ込んで泣いていた。  父が時々、私の手を見て困ったような顔をしていたのを知っている。すまんな、と小声で謝っていたことも。あの頃は何で父が謝るのだろうと思っていた。でも、今になって判る。父は自分に似た娘の指を見て申し訳ないという気持ちになったのだろう。  私は泣きじゃくりながら何度も手を洗った。久しぶりに声を上げて思いっきり泣いた。子供みたいにわんわん泣いたから、きっと近所の人はびっくりしたに違いない。  今度は爪の形なんか気にしない誰かを探そう。私は心の中で固くそう誓った。
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