契約

1/1

8人が本棚に入れています
本棚に追加
/31ページ

契約

薄暗い店の中に入ると、目の前には棚があり、靴が整然と並べられていた。その奥にはカウンターがあり、男か女かわからないような綺麗な顔をした大人の店主が立っていて、黒猫がてててと店主に向かって歩いていく。 「これはまた珍しいお客さんだ。いらっしゃいませ」 店主は唇に弧を描くと、カウンターから出て黒猫を抱き、俺の方へとゆっくり近づいてきた。ベストにスラックスといった無個性な服装をしているにも関わらず、どこか浮世離れした雰囲気を醸し出している店主に、俺は少し居心地の悪さを感じた。 「そんなに固くならないで。今日はどんな靴をお探しですか?」 俺は店主に促されるまま、靴がおいてある棚へと足を運んだ。 近くで見ると、売り物にならない小汚ない靴ばかりが並べられていた。土や砂で汚れているもの、血で靴が染まっているもの、破れているものなど、とてもじゃないが買いたいとは思えないラインナップだ。 「どれでも好きなものを手にしてみてください」 にこやかに微笑む店主に違和感しか感じず、俺は無意識に入り口のドアをみた。 「帰るのもいいですけどね。あなたはジジが連れてきたお客さんだから、きっと靴が必要なはずだ」 抱えていた黒猫のアゴを撫でながら言う店主に、俺は素朴な疑問を投げた。 「ここにおいてある靴。どれも普段履きには適さない物だと思うんだけど……俺のこと、からかってますか?」 店主は猫を撫でながら、キョトンとした顔で俺をみた。 「ああ、そうか。説明がまだだったね」 黒猫を地面に下ろすと、近くの棚に置いてあった泥だらけの靴を手にする店主。 「ここにある靴は全部、亡くなった人の靴だよ。この店には思い入れの深い、使い込まれた靴が集まるんだ。そしてこの店に来るお客さんもまた、靴を必要としているお客さんしかこれないようになっている」 店主は手にしていた泥だらけの靴を俺に差し出す。俺はその靴に触れずに、店主の手をはたく。 「靴を必要としているって、こんな小汚ない靴、お金を払われても要りませんよ!」 店主は目を見開き、ニヤリと笑った。 「本当に? ここにある靴は奇跡を起こす靴なのに、本当に要らないの?」 「奇跡を起こす靴……?」 その言葉を聞き、俺は再び棚へと視線をやり、靴をみた。 「きっとこの中にとても気になる靴があるはずだ。どれでもいいから、気になったものを手にしてご覧」 吸い込まれるように俺は手を伸ばし、棚から靴を掴み、手にした。赤いくたびれたスニーカーで、一部が血で赤茶色く変色している。 「それがいいんだね?」 店主はにこやかに笑うと、その靴を俺から奪い、カウンターの中へと入った。 慌てて俺は店主の後を追い、声をかける。 「あの、まだ買うとは言ってない……! それに金も持ってきてないし!」 店主は紙袋に靴を入れると、俺にそれを差し出した。 「お代はそれで結構だよ」 店主が指差したもの、それは俺の部活用の靴が入った靴袋だった。 「これ……? 中古ですけどいいんですか?」 店主は怪しく微笑むと言った。 「それ、思い入れが強いものでしょう? もらうならそれがいいな」 俺は店主の顔をまじまじと見た。 「そんなに警戒しないでよ。店の決まりでね、お代は思い入れのある代わりの靴って決まっているんだ」 小首をかしげて微笑む店主に、俺はほだされそうになる。 「でも俺、まだ死んでませんよ。ここにおいてある靴は死んだ人の遺品なんでしょう? 俺、まだ生きてます」 店主の顔が一瞬凍りついたが、何事もなかったかのように再び微笑みを浮かべる。 「そうだねえ、じゃあ君が死んだら店頭に並べるよ。それでいい?」 店主が俺に向かって紙袋を差し出す。俺は疑いの眼差しで店主をみた。 「なんで、死んだ人の靴なんですか?」 ぎゅっと手を握りしめながら俺は聞いた。 「ここに来る人はね、現世でなにか強く思い残したことがある人が来るんだ。」 「思い残したこと?」 「強い後悔や嫉妬、悲しみを抱いた人が来る。」 俺はごくりと唾を飲み込んだ。 「ここに並べられている靴たちはね、強い思い入れがある靴たちなんだ。その力を借りて、私が靴に魔法をかけるんだよ。奇跡が起こるように」 俺は何を言われているのかいまいちピンと来ず、困惑した。 「君が選んだこの靴は、君の思い残したことを解決してくれる奇跡の靴だ。どうする? この靴はいらない?」 俺はなにかにすがるように、紙袋に手をかけた。 「契約、成立だね」 俺は紙袋を受けとると、代わりに部活用の靴を店主に渡した。 紙袋を抱き締めながら店を出る。胸がドキドキして忙しなかった。
/31ページ

最初のコメントを投稿しよう!

8人が本棚に入れています
本棚に追加