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そんな特訓に夢中になっていた、受賞式の3日前のこと。
夫が経営する会社の岡田副社長から、珍しく私の携帯に電話がかかってきた。
『リモートワーク中なので仕方がないと思っていましたが、そろそろ新入社員も出社して来ますので、その前に社長に出社していただきたいのです。』
「それは直接、夫に言ってちょうだい。」
『社長。何を仰います。奥さまが社長ではありませんか!』
「えっ?!私が社長ですって?」
『はい。先代の社長から、そのように伺っております。』
「まあ、夫は会社の仕事まで辞めてしまったのですか?」
『ご病気ですから致し方ないと思います。ただ、そろそろ、新社長に登場していただかなければ会社としてケジメがつきませんので。明日にでも出社願えませんか?』
「病気?夫は病気なんですか?」
『そのように伺っておりますが』
「どんな病気なの?」
『奥さま、いえ社長は…ご存知ではないのですか?てっきり、ご自宅で療養中とばかり思っておりました』
「わかりました。とりあえず明日、会社に行きます。」
『では午前9時ちょうどに、お迎えに上がります。午前11時には全社員の前でご挨拶いただきたいと思いますので、よろしくお願い申し上げます。もし、挨拶文の原稿が必要でしたら、こちらでご用意させていただきますが、いかが致しましょう?』
「そうね。とりあえず用意して下さい。私も考えておきますけど。」
大根に、その話を伝えると、眉間に皺を寄せて少し考え込んでいた。
「夫は本当に病気なのかしら? 何となく若い女といっしょと聞いて、元気にしているものとばかり思っていたけど。ちょっと心配になってきたわ。」
「仮病ですよ。若い女と遊びたいだけでしょう。今頃、ハワイの海岸かどこかで、のんびり優雅に遊び暮らしているに違いありません。」
「そうかしら。だといいんだけど。あの人、カッコつけたい人間だから、若い女の前で張り切り過ぎて体壊してないか、ちょっと心配なのよね。」
「みのりさん。」
と、大根は私を見つめて言った。
私が真白実を引き受けた時から、大根は私を、みのりさんと呼ぶ。
「みのりさん。優し過ぎます。あなたを捨てて若い女を選んだ男の体のことまで、心配するなんて。」
「夫が私を捨てたとしても、私は夫を見捨てた訳じゃないわ。そのうちきっと帰って来る。ああ~疲れた、やっぱ、ここが一番落ち着くぅ~、とか言うに決まってるわ。」
「みのりさんは、怒ってないのですか?旦那さんのこと。」
「別に。浮気して子どもができたなんて、大したものだわ。そんな思い切ったことができるとは。あの人も成長したんだなあ。むしろ感心するわよ。とりあえず、どこで何をしていてもいいから、元気でいてくれるといいけど。」
大根は、美味しい深蒸し茶を入れてくれた。
「さすが、みのりさんです。人間のスケールが違う。まるで大根並みですね。みのりさんなら、きっと社長の仕事、立派にこなせます。旦那さんより適任だと思います。明日の挨拶文、一応、僕も原案を考えてみましょうか?今のみのりさんなら、自分の言葉で思った通り挨拶をすれば、それで良いような気もしますが…」
「大根。挨拶文、作ってちょうだい。私、しばらく家から外出してなかったので、美容室に行って来る。少し買い物もしたいし。頼んだわよ。」
本当は、次々に展開する意外過ぎる運命に、内心パニックになっていた私は、少し外に出て頭を冷やしたかった。
しかし、授賞式の訓練で心身共に疲れきっていた私は、美容室の椅子の上でグッスリ眠ってしまった。
ハッと目が覚めると、鏡の中に、明るめのカラーで大人セクシーなグラマラスカールが揺れるキャリアウーマン風な自分を発見した。
「あら、なかなかいい感じ!」
神秘と威厳を感じさせるロングヘア―で飾られた自分の中に、チロチロと熱い炎が燃え始めていることを自覚する。
この際、社長でも、小説家でも、何でもやってみよう!
次の日の朝。
大根がピカピカに磨いてくれた靴を履く。
「新社長!素敵ですよ。お気をつけて、行ってらっしゃい。」
大根に見送られ玄関を出ると、会社のベテラン運転手である50代後半の佐川が、まるで893の親分が乗るようなビカビカに黒光りした特別仕様のトヨタセンチュリーで迎えに来ていた。
「イマドキ、この車のセンス、どう思う?」
佐川に尋ねると
「私は好きですが。新社長には、真っ白いベンツの方がお似合いかもしれませんね。」
と言う。
佐川は夫が最も信頼していた人間である。
「佐川は鼻が利く。判断に困った時は、佐川の勘に頼ったら間違いない。」
と夫が話していたことを思い出す。
真っ白いベンツ。
真白 実には、ピッタリの車だ。
「佐川。その真っ白いベンツとやら・・・すぐに手に入らないかしら?」
「社長の御命令とあらば。この佐川にお任せ下さい。」
「まあ頼もしい。明後日には、その真っ白いベンツで迎えに来てほしいの。行先は会社じゃないけど。」
「わかりました。それでは、この車はどういたしましょう?」
「佐川が気に入ってるなら、これはこれでおいておきましょう。夫が好きで選んだ車でもあるし。」
「わかりました。他に何か、ご要望はございますか?どのようなことでも、何なりとお申し付け下さい。」
「そうね。じゃ、一つお願いがあるんだけど。大根を模どったネックレスが欲しいの。オリジナルで制作してくれるところ、あるでしょ。ただし、安物はダメ。ダイヤとかサファイヤなど、本物の輝きだけで作られた大根よ。できれば、明後日の朝、真っ白いベンツで迎えに来てくれる時までに用意して。」
「わかりました。初日から、張り合いのあるお仕事を与えていただき光栄に存じます。この佐川。必ずや社長の望みを叶えてみせます。」
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