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オードブル:少年の終わらない初恋
「どうか私のために怒らないで」
そう訴えながら少女は泣いた。
白くて薄い頬の上をはらはらと大粒の涙が転がり落ちる。白銀の髪の毛のカーテンの向こうで、アメジストみたいな大きな瞳が、傷ましそうに皮の剥けた少年の手を見つめる。そっと触れる少女の手は小さくて頼りない。けれど暖かな優しさに満ちていた。
彼女がこの台詞を言うのは何度目だろうか。
可愛くて気弱な少女が近所の悪ガキ共にちょっかいをかけられる度、殴ってでも追い払うのが少年の役目だ。その度に少女は悲し気にそう言うのだ。
親戚中から心配されるほどに人見知りが激しくて、おまけに癇癪持ちであった少年は人と接するのが嫌いだった。
けれど、彼女だけは別だ。
優しく、可愛いアンジェリカ。
少年は彼女のことが大好きだ。昔から人に合わせるのは大の苦手だったけれど、病弱な彼女の騎士役を担うのは内心では誇らしく思っているのだ。
「どうして泣くのですか。アンジェリカ」
怪我をしたのだろうか?
少年が窺うと、少女は小さく首を振った。
「違うの。貴方の手がとても痛そうで」
「なんだそんなこと」
少年は肩をすくめた。
「貴女が無事ならそれでいいのです。私は貴女の―――……」
少し言いよどんで、
「兄、のようなものですから」
安心させるように優しくほほ笑むと、少女は花が綻ぶように笑みを返しながら、「でもなるべく喧嘩はしないでくださいね」としっかりと釘を刺す。
「私だって、貴方が傷つくのはつらいの」
「ええ、ええ。わかりました。約束します」
「約束よ」
目の前に差し出された小指に自分の小指を絡めて、少年は眩しい物を見ているかのように目を細めた。目の前の少女が、とても美しいもののように見えたのだ。
―――アンジェリカ・ブルーノット。
魔術師の治める国、アンドレア王国の旧家の1つであり、優秀な魔術師を多く輩出するブルーノット家のお姫様。旧貴族とも呼べる家柄でありながら、謙虚で気立ての良いご令嬢であると大人たちからの評判も良い。
大人たちの集まりから漏れ聞こえる彼女の噂に、少年はいつも得意げに頷いていた。
そうだろう、彼女は自分の髪の毛を引っ張られた事より、いじめっ子をとっちめた少年の手を気にするような優しい子なのだ。疑いようもない初恋の人だ。
けれど、自分達に恋なんてまだ早いと思うのも事実だった。だって彼女はまだ8歳だ。恋なんて夢物語と思っているような少女にとって、自分は血のつながらない兄のようなものでしかない。困らせたりしてしまうのは嫌だ。ましてや怖がらせるなんてもっての他だ。
少年には確信があった。
路地裏を冒険する子どもの無鉄砲さに良く似た、幼心に芽生えたまったく根拠のない自信。あくまで純粋に、強い確信だけを持っているのだ。
いつか少女が恋をするのなら、その相手は自分であるはずだと。
その思い込みこそが、あの悲劇の始まりだったのだ。
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