13人が本棚に入れています
本棚に追加
♂♂
中庭にある迷宮の第三層。
人工の湖と幾つもの巨大な水槽が併設しているここは、一見しただけでは迷宮とは思えない。表現するなら研究所か、培養施設が妥当だろう。エセルの迷宮はどの層も同じような雰囲気をしている。何せこの店の主は、迷宮を農場か養殖場だと思っているので。
エルドレッドは腰のホルダーから花の意匠が施された白い杖を引き抜いて振る。ローブと帽子は部屋に置いてきた。リストランテで働くにはローブではなくエプロンが相応しいと思ったからだ。杖先から伸びる柔らかな銀の網が、生け簀で泳いでいた小さな人魚をはね上げた。
「はあ」
バケツの中でキイキイとわめく人魚を見ながら、深くため息をつく。
『悪食の箱庭』で働く事になってエルドレッドがまずやったことは、この店が真に潔白であることを確かめることだった。法の1つや2つ、抵触していても不思議はない。
ところが、悲壮感溢れるエルドレッドの覚悟を余所に、彼は正真正銘の潔白の身であった。迷宮作成のほか、魔法生物取扱いなど、入手困難とされる国家資格を取り揃え、法律上は至極まっとうに営業していたのだ。
「偽造……?」
と、思わずあらぬ疑いをかけたのは、さすがに申し訳なかったと思う。
確かにエセルは学生時代から優秀ではあった。表舞台に上がる事こそなかったが、学期末のテストではエルドレッドと首位を争っていたくらいだ。だからこそ、エルドレッドは彼が癒術士を辞めたことを承服することができなかった。
それほどまでに優秀な彼が、ゲテモノ喰い専用のリストランテ経営者に落ち着いた理由を、エルドレッドは知らない。不思議には思っているのだが、そこまで踏み込んで訊いていいものか解らなかった。
「エルドレッド、手を洗ったら1番テーブルにお願いします」
キッチンに戻り、シンクにバケツを置くと、外から声がかかった。パン包丁を片手にカウンターで作業をするエセルの向こうからは、かすかな喧騒が聞こえて来る。
「了解、店主」
行儀良く返事をしてキッチンから出ると、店は少し混み始めていた。
これには少し驚いた。時刻はまだ昼には少し早い時間を指しているのに。
この店は常々『closed』の看板が掛けている。これはエセル曰く『一見さんお断りの術』という人払いの魔術らしく、この店に訪れたいという確たる思いがないと、入っては来られない筈なのだが。
にも関わらず、きゃらきゃらとした姦しい話し声が店内に響いていた。客の大半は女性のようだ。甘ったるい匂いと、焼きたてのトーストの匂いがする。
(ああ、なるほどね)
エセルからトレーを受け取って合点がいった。
丸いトレーの中央、白い平皿に盛りつけられているのは厚切りのトーストだ。うっすら焼き目のついたそれを2枚に切り、縦と横、重なるように配置している。その上にかけられたのは2色のジャム。1つは赤く煮詰めた苺のジャムだが、もう片方は鮮やかな青色をした青薔薇のジャムだ。
(これはたしかに女性人気がでそうなメニューだ)
正直、これなら自分だって食べたい。あまやかな見た目の通りに甘いものが大好物だった。
ただ、女性客はもちろん、エルドレッドも知らないことだが、この苺も迷宮で育てられたものである。ジャムになる前は小動物を襲って食べるような、自走する肉食の苺のクリーチャーであったなど、想像もできないだろう。
最初のコメントを投稿しよう!