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オードブル:彼女の叶わぬ夢
「私、料理人になりたい」
真っ白い病室で荷物をまとめていた少女が、何の脈絡もなしに唐突にそうつぶやいた。「今日の夕飯はシチューよ」と全く同じ調子で言い放たれたそれに、傍で荷造りを手伝っていた金髪の青年は、柔和な笑みを保ったまま、わずかに怪訝そうな顔をした。
「それはまた、唐突な話ですね」
「ずっと考えていたの。ここを出たら何をするか」
ふふ、と少女は笑う。
薔薇色の色づいた頬を、さらさらと長い銀髪が撫でる。嬉しそうに細められた目は朝露を帯びた葡萄みたいだという感想を、青年は声には出さずに嘆息に留める。正直なところ、どこを切りとっても美味しそうに見えるくらいには彼女の容姿は好ましい。
「ちょっとエセル、訊いてるの?」
「ええ、ええ。聞いていますよ。どうして料理人になりたいんですか?」
「だって素敵じゃない」
その返答はあまりに短絡的で曖昧だ。「カッコいいから騎士になりたい!」と初めての将来の夢を声高に宣言する子どものような台詞が微笑ましくて、つい笑ってしまう。
「ああ、もう! そんなに笑わなくってもいいじゃない!」
すっかりむくれてしまった彼女に慌てて「申し訳ありません」と恭しく頭を下げた。
「貴方はきっとこれからも病院に勤めるでしょう? 問題児だったエルドレッドも今や学校の教師! きっと忙しくて会えなくなっちゃう……でも、人間なんだから食事は毎日摂るじゃない。2人が食べに来てくれればいいのよ」
得意げな顔で少女は未来の自分の店を思い描く。
「城下町の裏通りに店を構えるの。あそこはオレンジの屋根の建物が多いから、敢えて青い屋根にするわ。木造で、広すぎず、狭すぎない大きさ。……だって、忙しすぎるのは嫌なんだもの。けど中庭は欲しいわ、ガーデニングがしたいから。店から見えたら最高ね。季節の花が薄暗い店内を彩るのよ」
「音楽は?」
「ジャズがいいわ。エルドレッドは落ち着いた音楽が好きだから。つい居眠りして寝過ごしちゃうくらい居心地よくしてあげないと!」
「おや、私のことは考えてくれないんですか?」
「エセルには……そうね、貴方の好奇心が満足できるよう、他の店では食べられないものをご用意するわ」
「たとえば?」
「たとえば……う~ん、動くクッキーとか?」
「もう少しパンチが欲しいですねぇ」
「じゃあスライムのスープ!」
「人魚のカルパッチョも付けてください」
「やだ、私そんなの捌けないわ」
「では私がお手伝いしませんと」
「エセルが?」
少女が驚いたように目を見開く。思いもよらなかったのだろう。けれど、エセルは、彼女のためなら今まで零れ落ちそうだな、と青年は心の中で舌なめずりをした。少しはにかみながら「駄目ですか?」と問えば、
「駄目、じゃ……ない、けど」
真っ赤な顔をした少女が綺麗に整えたシーツの海に顔を埋める。勢いあまって跳ねたマットレスが、ぼよんぼよんと畳んだ洗濯物を転がしてしまう。涼しい顔でそれらを拾い集める青年を、少女は少々恨めしく思った。
シーツの海から顔はあげない。そんな照れ屋なところも愛おしく思っている青年は、優しく少女の髪を撫でる。その手つきは恋人同士の様に甘やかで、思わず涙が零れそうになる。
「改めて、退院おめでとうございます。……アンジェリカ」
この日は少女の長い闘病生活が終わりを告げた日であった。
長くは生きられないと言われ続けていたアンジェリカが、遠い未来を夢見る事ができるようになったのは、主治医である青年の尽力があっての事だ。
(やっと、言える)
アンジェリカには病気が治ったらやろうとしている事がたくさんあった。その内の1つを今、叶える時だ。
(彼に、好きって言おう)
そして願わくば、これからの長い時間を共に寄り添って生きるのだ。
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