人生を売る店

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人生を売る店

 詩織の案内と共に、大通りから離れて五分程歩いたところに、そのお店はあった。メニュー表も外に飾られていなければ、お店の名前の看板もない。でも、お店の扉には「Open」という文字があったから、確実にお店だということだけ分かった。 「ね? 喫茶店かな? って感じのお店でしょ?」 「確かにね。入って確かめなかったの?」 「前に見かけた時は用事があったから入れなかったんだよ」 「ふーん、そう」  私は店の鈍い金色の丸いドアノブに手を伸ばして、回した。開いた扉の隙間からふわりとコーヒーの匂いが鼻腔をくすぐる。 「いらっしゃいませ」  そのお店にはテーブル席がなく、入ってすぐ先にカウンターが広がっていて、客側と従業員のスペースが完全に区切られていた。カウンターの先で微笑んだ男性は、鼻の下の白い髭に、オールバックの白髪に、白いシャツに黒いエプロンをしていた。店員はその初老の男性のみで、店内にはその男性と私と詩織しかいない。 「このお店って喫茶店ですか?」 「いいえ、違います」  喫茶店のマスターらしい風貌の男性にきっぱりと否定されて私は目を丸くした。喫茶店でないのなら帰るという選択もあったが、それならカウンターの向こうに見えるコーヒーメイカーはなんのためにあるのだと思い、質問をすることにした。 「じゃあ、このお店はなんのお店ですか?」 「人生を売るお店です」 「人生?」  私の隣で詩織が素っ頓狂な声をあげた。  カウンターの向こうでコーヒーメーカーがごぽごぽと音を立てる。よく見ればカウンターの向こうの棚は全て食器棚ではなく本棚で、そこには分厚いファイルが隙間なく収まっていた。 「喫茶店ではないのでお代はいただきません。一杯、珈琲でも飲んでいかれますか?」  私と詩織は顔を見合わせた。  人生を売るお店とはなんなのか、好奇心が勝って、私と詩織はカウンター席に座った。私と詩織の前にコーヒーが差し出される。角砂糖の入った瓶から詩織が三つほどコーヒーに落とすのを眺めながら、私はコーヒーに口をつけた。 「人生を売るってどういうことなんですか?」 「そのままの意味です。お二人とも、別の人間になりたいと思ったことはありませんか?」  私と詩織は首を縦に振ることも横に振ることもしなかった。マスターらしい初老の男性は私達が反応をしなくても話を続けた。 「このお店はその願いを叶えることができるのです。今とは顔も名前も違い、他人になることができます」 「それって、整形ってことですか?」  整形をしたら、生まれ変わるとかそういうことなら、私も詩織も間に合っている。アイドルグループに入れたということは、一定以上の「可愛い」と言われる顔を持っているのだ。これ以上の顔になるつもりもないし、整形なんてしたら、むしろバッシングの対象にもなってしまうことがあるからリスクがあって、メリットがない。  しかし、マスターは私の質問に首を横に振った。 「いいえ、違います。整形は身体の一部分を変える手術です。しかし、この店で売っているのは人生全てです。身体と顔と名前と立場、全て。記憶と脳みそはどうにもなりませんがその方が皆さん、喜ばれます」  整形でなければ、なんなのだろう。  戸籍を売る闇業者か。それなら、ここに長く居座るのはまずい。私も詩織も暗い仕事をしている人間に近づいてはいけない。アイドルのイメージに関わる。 「例えば、こちらをご覧ください」  マスターらしい男性は自分の後ろの棚から一つのファイルを抜き取って、真ん中あたりと開いて、私達に見せた。  そこには若い女性の全身の写真と横顔の写真があり、名前と年齢、スリーサイズや事細かな個人情報が載っていた。  やっぱり、悪いことをしているお店かと思って、私はコーヒー一杯飲み終わるとカウンター席から降りた。 「話を聞かせてくれてありがとうございます」 「いえいえ、もし人生を買いたい時は、またいらしてください」  詩織も急いでコーヒーを飲み干して「ありがとうございました!」と頭を下げて、お店を出た。 「なんだろうね、あの店……人生を丸ごと買うってそんなことができるのかな?」 「人生を買うってもしかしたら、人身売買の斡旋とかかも……。ほら、自分の人生を買うんじゃなくて、他人の人生を買うとか」 「あ、もしかしたら、そうかも! ごめんね、玲奈ちゃん、私、怖いお店だと思わなくて……」  詩織は申し訳なさそうな顔をした。  私も最初は喫茶店だと思った。  先にあのお店を見つけたのが私でもきっと詩織を連れてきただろう。 「大丈夫だよ。気にしないで。今日は一緒にご飯食べようよ」  そう言うと詩織は笑顔になった。
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