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「またこの季節がやってきた」
僕は樹を見て呟いた。淡紅色の、花を纏った。
この樹は毎年この時期に、咲かせた花を数日で散らす。何百年も生きながら。
その花は、『純潔』が花言葉であるらしい。全くもって似つかわしくない。
そもそもだ。花を咲かせること自体が植物のセックスアピールだろう、汚らわしい。
ふしだらな目印で着飾りながら、性器を周囲にひけらかす。
淫靡な味と匂いの体液を、他の動物を誘い引き寄せ性器の奥を吸わせながらその鼻先に種を擦ることで生殖活動を行う淫売、それがいわゆる植物だ。
植物には思考も感覚も無いらしい。だが、もしあったとしたらどう考えどう感じる? 虫や小鳥はアダルトグッズ、他の動物を目にするたびに発情しながら獣姦プレイでエクスタシーか?
そう考えると、花見とポールダンスの違いがわからなくなってくる。『他の生物のセックスアピールを肴に酒をあおる』、そんなものは、淫売と快楽の奴隷で構成された煩悩の宴と言っていいだろう。
そして何の因果か、その植物は、人間サマの節目の時期に咲いて散る。離別の季節に股を開き、邂逅の季節に穢れを落とす。
その儚く華美な姿は多くのひとを魅了はするが、同時にいい迷惑であったりもする。
年度のアタマに撒かれた穢れは、風に乗りながら視界をふさぐ。路面に積もってタイヤを滑らす。そう事故の原因になる。時にそれは、人間サマの命や人生に引導を渡す。
新たな生活の幕開けの、不慣れななかで送る日々。未来を夢見たひとも居ただろう。
にもかかわらず、淡紅色の死神は無容赦に凶刃をふるう。これは見目麗しき花弁だから許されている。
もしこれが勃起した男性器と使用済みのコンドームの話であれば、誰も許してはいないであろう。違いなど、風貌くらいのはずではあるが。
悪態ばかりが頭をよぎる。なにせ、この僕もその被害者だ。正確には、その死神と同名を持つ人間の。
◇◆◇
僕は天文学者になるはずだった。夜空を瞬く星の輝き、ちっぽけな地球上とは単位のケタが違う広大な宇宙、その研究が世にもたらす多大な貢献。
そんな夢と呼ぶには現実的で、目標と呼ぶにはロマンチックな天文学の世界。僕は真剣にその研究者を目指し、両親にもその応援を仰いだ。
「気持ちはわからなくはないが、それは見当違いだろう」
両親は、僕に天体望遠鏡を与えてくれた。学を修めるための膨大な量の参考書と、腕利きの家庭教師を与えてくれた。だが、そうじゃないだろう。
僕の父は数学者だ、数字に弱いはずがない。それにもし具体的な数字を出せなかったとしても、おおよその見当はつくはずだ。
僕の父は数学者だ、それに弁護士の母と共働き。タワーマンションの高層階に住み、それぞれのアシが高級外車だ。
カネが問題のはずがない。けして難しい話ではないはずだ。
「僕は天文学を研究したいんじゃない、天文学者を名乗りたいんだ」
部屋の隅で、流行りのマンガやゲームがホコリをかぶっていた。どう逆算しようとも、まともに勉強していては遊ぶヒマや読むヒマはなかった。
別にそこまで好きではないが、特段嫌いなわけでもない。
僕の小学生時代のアダ名は、『オタク』だった。痩せた身なりと銀縁メガネがアダ名の由来だった。
それ自体もけして愉快ではなかったが、本物の『オタク』共が輪に招きいれ、オタクトークに巻きこもうとされることがたびたびあったのが不愉快だった。
非現実的な人型ロボットの名前を連ねてどっちが強いか非現実的な髪の色の女の子のどれがいちばんかわいいかなんて興味がなかった。
確かにそのアニメを観はしたが、話も登場人物もまともに覚えていなかった。
ただぼんやりと目や指を動かしているなか、退屈させない程度に程よく目や耳から頭が刺激される。それがアニメやゲームの良さだろう? それ以上には求めていなかった。
一方で、研究職について熱を入れて語る父にもその気持ち悪さは感じていた。
父と接するそのたびに、父があの気持ちの悪い『オタク』共とだぶって見えた。
僕は研究オタクになりたいんじゃない、ただ優美な職に就きたいんだ。
「別に勉強なんかしなくても、試験のたびに裏金積めば学者なんてなれるだろ?」
ある日僕は家族に吼えた。我慢の限界だった。言い含めたくらいでは、察する気配も見れずにじれた。
「それで本当にいいのか、もう一度よく考えてごらん」
父はそう僕に返した。諭すような、優しさをこめた目つきで。『僕が浅はかだから大事なものに気づかない』、そう言いたげな目つきで。
「いいから言ってるんだよ! 真面目に生きる奴がバカなんだよ!」
僕は話の通じない父を睨んだ。一瞬父が睨みかえし、表情をまた元にもどした。
「だいぶ疲れてるみたいだな、たまには気分転換も大事だぞ」
父はそう僕に返し書斎に戻った。そうであってくれるはず、そう信じたさそうな表情で。
父は研究者失格だ。いち研究者のつもりなら、希望的観測より事実を見ろよ。
息子は生きがいを求めてなんかいない、肩書きを求めているんだ。現実から目をそらすな、現実を見ろ。
溜まりに溜まったストレスのなか、僕は久々に天体望遠鏡を覗いた。
こうして覗いたのは二度め。一度めは、両親のまえで覗いてみせた。夜も更けたころ、家族みなで出かけていってピクニック。望遠鏡のためだけに。
夜空に輝く天の川。市街地の、明るい夜では見れない景色。一切興味を持てない景色。
あの頃は、その良さを語るために覗いた。『どんなセールストークでプレゼンしよう』、その考えでいっぱいだった。
両親に出資させるため、覗きながら頭を絞った。精一杯喜んでみせ、本気の度合いを納得させて、憧れの天文学者の職につく。必死で頭を回しつくした。
そしてそれ以来覗かなかった。
僕は被ったホコリを払ってむせた。数年放置で不衛生。覗いてやるから見せてくれ、また知恵を絞らせてくれ、僕に肩書きだけをくれ。
その望遠鏡は、月を映した。ぽっかりと光るその月の、土煙の臭いがこちらまで届きそうな凹凸の目立つ表面を。ただただ汚いだけだった。
僕は望遠鏡から目を外した。きれいな満月が視界に映った。
まるで天文学者みたい。肩書きだけは美しく、そうなるまでは泥臭い。僕は肩書きだけが欲しい。
欲しい、美しい部分だけが。
僕は夜の街を見た。残業の光で美しく輝いていた。
「この世界は、うわべだけは綺麗だな」
思ったことばが口をついた。醜く汚い人の欲。支配欲が街を光らせ、ネオンサインが物欲を煽る。
世の中は、なにもかもが美しい。ただ解像度を下げさえすれば。
「どうせなんだ、その汚さを今日はとことん見てやるか」
僕は望遠鏡を手にとった。夜空ではなく、街へと向けた。
望遠鏡が、街を切り取る。美しく光る夜の街。その解像度を醜く上げる。つないだスマホに、醜く映す。
オヤジ狩りにあうサラリーマン、街角で吐く酔っぱらい、塾の出口のうつむいた子供。醜いな、実にこの街は醜いな。
わかっちゃいたけど、醜いな。
僕は宅地にもレンズを向けた。平民どもの、表面すらも醜い景色はどれほどまでに醜いだろう。
醜いな。これは醜い。肌着姿のオヤジの一服、ブスとブ男のいちゃつく姿、子供をはたき叫ぶ母親。
みすぼらしく朽ちたアパートの、みすぼらしく荒んだ住人。せめて着飾れ、取り繕え、うわべだけでもカネを持て。
「もしかしたら、そう思うのは僕が美しすぎるからかも」
エリート一家の優美な生活、僕はそれに慣れすぎた。そう思うと、僕の心は多少は晴れた。
「もっと見せろ、今日はとことん見せてくれ」
いまの僕に足りないものは、優美な自らの自己認識だ。摂取すべきだ、下賤の民の醜さを。
ブルーシートのホームレス、よれたスーツのサラリーマン、コンビニのまえにたむろする半グレ、その他もろもろ資本主義の敗北者たち。
そのみじめさで汚れた姿を、望遠鏡からスマホに落とす。スクショに撮って魚拓を残す。
自らが消さねば残り続ける絶対的な優越感が、優美な僕を肯定する。
悔しいか? なら民の上空に住んでみろ。望遠鏡を買ってみろ。別に難しい話じゃない、ただカネを払うだけでいい。できないか? 貧乏か? 生まれながらの負け組か? 実にみじめな話だな。
おっといけない、これは彼らが醜劣なだけじゃなく、僕が優美だからだった。悪かった。全能の自覚が不足していた。その事実の教唆に感謝する。
「だがもっとだ、もっとそれを教えてくれ」
飽くなきまでの向上心に、僕は望遠鏡を覗き続けた。望遠鏡は、下賤の民の集団を映した。
いわゆるストリートミュージシャンの路上ライブと、それに群がる人だかりだった。
「生ゴミ共と、群がり集るカラス共。もっと見せろよ、醜さを」
僕は望遠鏡の倍率を上げた。映像の解像度を上げた。
他人の醜劣の解像度、それが優美の解像度。
スマホの画面は、カラスを醜く切りとった。女の目から流れる体液、無防備な雌を抱く男。
雌が子種をあざとく誘い、本能のままに雄が飛びつく。
音楽なんて、関係ないだろ? さっさとホテルで済ませろよ。
レンズを生ゴミへと向けた。ギターを持った金髪男が、汗だくで自己に酔っていた。
3月はじめの寒い夜、必死でばら撒く騒音公害。騒ぐな生ゴミ、五月蝿く臭い。
レンズをボーカルへと向けた。マッシュボブの、雌の雛。アンプにつないだキーボード、鳴き声に震えあがるマイク。
流行りを模した髪型と、流行る未来の見えない顔が、拡声器で撒く騒音公害。
僕はスクショで魚拓を取った。若さがゆえの黒歴史、僕は水には流してあげない。
さて今日はもう寝よう。3浪はもう決まったことで、焦っていても仕方がなかった。
◇◆◇
まだ肌寒い、初春の目覚め。仕事に親が出ているなかで、水を鍋にいれたのち沸かし、スナック麺をゆがいて食べた。
ストリートミュージシャンという低能、それを僕はネットで調べた。若気の至りの自己顕示欲、その意地汚さの詳細を。
出てきた出てきた、無力な苦悩と無様な末路が。
分のわからない平民たちの、蛮勇がゆえに苦しむ姿は僕の心を高揚させた。
さてさていまは平日の昼、下賤の民はどう下衆だろう。僕はレンズを街へと向けた。
まず目を向けたのはオフィスビル、デスクでくつろぐスーツの男。だらだらと、勝者の余裕が示された。
眩しかったな、僕の未来は。強者の姿は美しい。
建築現場にレンズを向けた。筋肉が示す重労働、険しい顔が弱者の象徴。
飼われ使われ疲弊する、みじめで無様な敗者の姿に僕は優美の悦を覚えた。
向かいの校舎に目を向けた。偏差値の低い敗者の雛の飼育小屋。弱者のヒヨコは、どう醜いか。
「これはなんという偶然だ」
僕は世界の狭さに驚いた。マッシュボブの、雌の雛。昨日の顔が、そこに居た。気だるく授業を受けていた。
敗者の姿は醜いが、もがく弱者はさらに醜い。
低能は、必要なモノを無駄にする。余計なモノに、疲弊する。
小銭を拾え、弱い生きもの。宝くじを、買うまえに。
だが良かったな。きみは引いたよ、くじの当たりを。テレビに映るそのまえに、僕の興味を惹いたんだ。
「足掻いてよ、醜く汚く。人気商売の商品が、テレビでそうしているように。
きみはそう、なりたいんだろう? テレビのまえのお客のように、僕を悦び愉しませてよ」
見世物小屋に、自ら飛びこむ。そうしなければ、自己顕示欲すら満たされない、愚かで哀れな弱者の醜態。僕は見届ける気になった。
6限目を終え、教室から出る動きがみえた。クラスメイトに目もくれず、まっすぐ校舎の出口を目指す。
「釈放された服役囚」
そんな言葉が頭をよぎった。バス停に立ちバスへと乗りこむ、檻から出たのち別の檻へと。奴隷階級は大変だ。僕は肉眼で追いかけた。
「しまった、見失った」
徒歩は望遠鏡で追いかけられた、バスは目視で確認できた。
だが、バスから降りた客までは見分けることは適わなかった。口惜しいが、今日の観察はここまでだ。
「そうだ、双眼鏡を買おう」
バードウォッチング、ライブ、狙撃。人はさまざまな目的で双眼鏡を使う。デジタル赤外線ナイトビジョン。これがいい、ぴったりだ。
僕は両親にそれをねだった。星を大まかに見つけるために、夜に使えるものが欲しいと。
あっさり承諾してくれた。
「目標目指して頑張って」
僕は背中を後押しされた。うん、頑張るよ。醜劣を笑う優美になるよ。
3日ほど待ち、ようやく届いた。この期間の3日は長い。来月からはまた受験勉強、それまでしかない自由な日々を、みすみす3日も待たされた。
その間僕は調べてはみた。まずは彼女の在籍する学校と、その全期間のスケジュール。
ハッキングの技術なんてないが、実に無防備なものだった。収穫は去年の文化祭、彼女はそのときステージの上で騒いでた。僕は氏名とクラスを把握した。
そして手元に双眼鏡、今日は住所を特定しよう。実に放課後が待ち遠しい。
来たる放課後、彼女の帰宅はまっすぐだ。あの日と同じくバスに乗る。双眼鏡ではそこまで細かく見えないが、姿形は特定できる。降りる人々を見分けれる。
ここか、ここが彼女の家なのか。こぢんまりとした一戸建て、そこに彼女は入っていった。
僕は望遠鏡に構えなおした。表札が示す青木の2文字、間違いはないと確信をした。
おっと、これは収穫だ。ブラウスを脱いでスウェットに着替え、下のスカートに手をかけている。
道路のまえには壁がある、だから無防備だったのだろうな。だが上空からは見えるんだ、下々の民の醜劣が。
スカートを下ろし、スパッツも脱ぐ。この時期はもう蒸れるのだろう、ショーツを下ろして汗を拭う。
これが優美だ、強者の優美だ、僕の優美だ。無防備がゆえの黒歴史、僕のスマホは逃さない。
僕は商品の偉大さを知った。現実の素人の肢体は汚い。商品の肢体は程よく丸み、程よく締まり、体毛は切りそろえられていた。
「家畜化された肉は美味いが、野生の獣の肉は不味い」
その伝聞を僕は信じた。
今後の彼女を僕は憂った。音楽で売れる宝くじ、それを逃した彼女はどうなる。
顔は武器にはならないだろう。世の偶像にはなりえない。女の武器もあの調子、商品価値がまるで無い。
僕が今まで見下してたもの、その偉大さを思い知った。商品価値があるだけで、生きる価値があるんじゃないか。
痴態を売って生きる淫売、その下を見れば下が居た。
商品の下に商品失格、それが世の中の現実だ。
その日の晩飯は肉だった。食べられるために生まれた商品、その味の良さを噛みしめた。
◇◆◇
暖かくなり、新たな年度が始まった。『競争意識を学んで来い』、そう促されて予備校通い。
不思議と満更でもなかった。ここ最近で、醜い弱者に嫌気がさした。あの仲間入りは死んでもごめんだ。
勉強の手間と、家畜の一生、もしくは家畜失格の廃棄物。そのどれかに選べないなら、僕は勉強するしかない。
模試の結果を両親が見た。当然のごとく叱責された。
「一年だ、一年で見返してやる」
そう一瞥して部屋へと戻った。失望したのはこっちが先だ。『いつ裏口へと導くか』、その期待を裏切っただろ。
僕は赤本を手にとった。過去3年分積もり積もった新品の。
こんなモノを手にとるなどと、それ自体が屈辱だったが、今年は手間を惜しまない。
「攻略するんだ、一年かけて」
教養を育む気なんてない、そこまでバカ正直にはなりきれない。これさえ攻略できればいい。
僕は赤本に目を通した。出題傾向、身につけるべき知識、身につけるべき理論、今後の方針をそれで練る。それに応じて、受ける授業と手を抜く授業、サボる授業を選び抜いた。
授業を受けて合間に自習し、模試の結果に叱責されて、その後現状と課題を自己分析する日々。
「僕が欲しいのは学力じゃない、学歴だ」
刹那の偏差値などと無意味だ、目指すは来年の合格だ。僕は志望大の出題傾向、関連する問題のみに注視した。
競技の世界もそうだろう? 強者は実力ではなく実績で決まる。強者が競争で勝つわけではない、競争の勝者こそが強者だ。
それでも手間はかかってしまう。膨大な量の知識と演算、当日はそれが求められる。その修得に嫌気が差すと、僕は望遠鏡をスマホで覗いた。あの日と同じく駅前に向けて。
彼女は今日も騒いでいた。手はキーボード、口にはマイク。拡声器での、命乞い。弱い犬ほどよく吠える。
その醜劣が、滾らせる。僕は優美を手に入れる。
今日も気概を補充し終えた。これで僕は頑張れる。
◇◆◇
夏を迎えて3者面談。チューターのまえに僕と母。
第一志望はC判定。
「授業のやる気にムラがある」
チューターはそう、母に告げた。当然だろう? 僕は偏差値を上げたいんじゃない、志望大に受かりたいんだ。
母は真摯に聞いてみせた。事務作業を消化した。
「僕は受験で受かりさえすればいいと思ってる、本格的な勉強は大学に入ってからだから」
僕は正直な感想と、嘘の今後の方針を母に告げた。
「そうね、頑張って夢を叶えなさい」
母はそう僕に返してくれた。上々の出来といっていいだろう。
「絶対に投資させてやる」
親の機嫌を絶対にとる、それが今日の目標だった。
晩飯を終え、望遠鏡。スマホに映る、鳴き叫ぶ小鳥。進路を決める高3の夏、最近毎日マイクで騒ぐ。
休みが早い、偏差値の低い高校は。悪い頭は積み荷が軽い。
頬をつたって汗が落ちる、タンクトップがブラを透けさす。
鼻の下を伸ばさせれてるか? 露出の多いjkは。
パパ活すればいいかもな、夢の順当な挫折のあとに。僕は欲情してやれないが、若いってだけでまぁいけるだろ。決断は早いほうがいいぜ。
もう10年できみはオバちゃん、そうなったきみに価値はない。
騒ぎ終えると、機材をリュックに詰めて帰宅。日本はいい国、水と平和がタダの国。夜ママチャリをこぐjkが、無事なままで家に帰れる。
「なにしてるの?」
おっと、母親だ。気をきかせて夜食を作ってくれたみたい。
「ノックくらいしてよ、双眼鏡の手入れだよ」
この事態は想定してた。言い訳は用意してあった。
「覗きなんてしてるんじゃないかと思っちゃった」
「違うよ、道路で見えかたを確認してたんだ」
「そう。あまり紛らわしいことしないでよ」
覗きじゃないよ。見下してた。
よかったよかった、未来の出資を取りやめられず。
◇◆◇
秋になり、また肌寒くなってきた。受験戦争も佳境に近づき、みなピリピリとしだしてきた。
予備校の講義も志望大対策。見飽きた問題と向きあう毎日。
対策論を講師が叫ぶ。半年間練ってきた道、僕にとってはその答えあわせ。
一方でも、もうそろそろか。来たる高校の学園祭、どんな醜劣を見れるだろう。
高校時代、欠席したのが体育祭と学園祭。準備と片付けをしたくなかった。
青春がどうのとピーチクパーチク、わずらわしさに嫌気がさした。金太郎飴が右向け右で足並み揃えて叫ぶ『個性』、個性という名の同調圧力。僕までその輪に引きこむな。
どうおまえは叫ぶんだ? どう騒ぐんだ? お勉強した反骨精神、手本の模倣の『自己主張』。
醜劣を晒せ、滑稽に。華やいでみせろ、メッキにまみれて。
校庭には簡素なステージ。幻覚剤のジャンキーを真似た、サイケもどきの落書きが飾る。
ちんどん屋たちがそのステージに立つ。おっと失礼、まだちんどん屋の志願者だった。ごっこ遊びと比較されては、見世物のプロがかわいそう。
表情に出る。緊張感と興奮が。彼女らのなかでは自分たちが主人公。周囲にとっては風景なのだが。
白色トレーの焼きそばの味と、ライブという名の騒音公害、どちらも記憶に残らない。人間なんてそんなもの。
「声も音も、こちらまでは届かない」
僕はその事実に感謝した。その正念場なのだろう、マイクを握る手がノドが、いつにも増して震えている。
彼女にとっては夢への熱意、その公害のデシベル値。周囲はせいぜいなだめてやれよ。彼女たちに悪意は無いんだ、ならせめて落ち着かせてやれ。
騒ぎ終えて、頭を下げる。周囲が立って、拍手を送る。
「やっと黙ってくれるんだ」
そんな言葉は絶対出すな、思っていても口には出すな。
◇◆◇
今年も冬が訪れた。体が震え、手先がかじかむ例年通りの不快感。
今年がいつもと違うのは、日々拭いきれない焦燥感。模試判定で安心しながら不安感を勉強で拭う。
去年までは冷めていた。「裏口の門を叩いてくれる」、その期待感があったから。
今年はそれは諦めた。失望がゆえに勉強した。絶対ムダにはしたくない、この時間と労力を。
目標向けての投資のコスト、僕にとっては安くはない。
後期講習はすでに終わった。自宅で過ごす時間が増えた。ホコリの積もったマンガとゲームはもう興味をそそっていなかった。
望遠鏡は輝いていた。覗くと僕に、元気をくれた。
コーヒーのカフェインなんかより、脳内麻薬を出させてくれた。
さて、本日も覗くとしよう。脳内麻薬を享受しよう。
通学と同じダッフルコート、ラクダ色の質素な装い。素手の指が、鍵盤を叩く。暖房のきいた部屋のなか、僕の背筋を悪寒が走った。
マイクに白い吐息がかかる。唾液由来の水蒸気。男のマイクのコラ画像、顔が良ければ出まわっただろう。
「僕は優美に生き抜いてやる。こんな低脳などとは違う、優れた世界の住人として」
民の醜劣は危機感をくれる。間違ってもそうなりたくない。僕はスマホから目を離し、参考書へと目を移した。
◇◆◇
ついにこの日がやってきた。来たる一般試験当日、僕はいつもどおりにレンズを向けた。
レンズの先で、開くブラインド。部屋の全容が露わになる。きみは背伸びをしながら朝日を浴びる。
フリースのパジャマからヘソが顔をだす。それに合わせて、ノーブラの先端が上下する。
その光景を見るたびに、『今日も一日が始まった』、その実感が訪れる。
「行ってくるよ、戦ってくる」
僕はそう告げ、戦地に向かった。『今日一日で全てが決まる』、そう自分を鼓舞させながら。
問題用紙と解答用紙が配られる。名前を書き込み、問題用紙に目を通す。
「この一年を、この攻略に費やした」
心のなかで、勝ち誇る。脳が自動で回答していく。
不安を打ち消す高揚感。どの科目も、制限時間の半分以上を回答の見直しに使った。
憑きものが落ちた気分だった。何の不安も残らなかった。
合格発表の日が遠い、あとはその日を待つだけなのに。
◇◆◇
「長かった、この日を待ち望んでいた」
多くの期待と一抹の不安、今日はそれから開放された。
時間とともに、サイトを開いた。僕の受験番号は、確かにそこに示されていた。
念のために何度も見た。歓喜を何度も貪った。
ラインで両親に報告した。祝福の声が返ってきた。
「僕は優美を手に入れた」
夢への道が、開かれた。未来の僕は、天文学者。
その肩書きが、手に入る。
僕はベッドに飛びこんだ。興奮を落ち着かせようとした。
心臓の音が鳴り止まなかった。陶酔しながら気絶した。
いま思えば、その瞬間だけ幸せだった。
夜が訪れ、僕はレンズを駅前に向けた。それまでと同じ行動を、それまでと別物になった気分で。
向こうはその日も騒いでた。醜劣を晒し続けてた。
公害をばら撒き終えた醜劣は、何やらスマホをとり出した。
ギターの男が画面を振りまく。歓喜に顔に包まれる。
人集りが立ち去ると、抱き合いながら唇を重ねた。おいおいそれは犯罪だ、公然わいせつになるらしいぞ。
落ち着いたらしく、機材を背負って帰路を辿った。公園を使ってショートカットのいつもどおりの帰り道。
そのときだった。突如ママチャリが蹴飛ばされた。
地面で痛みにうずくまる、それを男に囲まれる。
やがて力で捕まえられると、公衆トイレに連れられた。実に実に手際よく。
悪い予感が頭をよぎった。僕は台所へと向かった。
「果たしてこれでいけるだろうか」
僕はペティナイフを取り出した。迷っている猶予はなかった。
僕は公園に急いだ。悪い予感が離れなかった。
公園についた。多目的トイレから物音がした。
息をひそめ、出口を見てると、物音がやみ扉が開いた。
男が数人なかから出てきた。晴れやかといえる面持ちで。息をひそめ、遠くに過ぎ去るのを待った。
僕はトイレのなかへと入った。なかですすり泣いていた。
衣服を乱され、胸を露出し、股間から血が垂れていた。
泣き腫らしたまぶたは涙を、ショーツを捩じ込まれた口は涎を、穢された股間は男の液を、それぞれさまざま汚く流す。
「こんな裏切りはないだろう」
僕は太ももにナイフを刺した。閉じたまぶたが大きく開く。なんだその目は、なにが言いたい。
「僕はきみを救うはずだった」
僕は腕へとナイフを刺した。無駄に抵抗しようとしてたから。
救ってあげる、つもりだったよ。きみを庶民の醜劣からね。口が動く、ショーツが邪魔かな。
「きみはそんな声してたんだ」
マイクで騒ぐ理由がわかった。声の偏差値だけは高い。言葉は聞く耳持てなかったが。
「なのにきみは、穢された」
僕はナイフを腹へと刺した。穢れたきみは死んでくれ。きみが刺される理由は以上だ。
「もうこれ以上、被害者ぶるな」
楽器のように、悲鳴を奏でる。醜劣ごときが穢たくせに。
「いいから黙って死んでくれ」
僕はひたすらナイフで刺した。黙らせ静かにさせるため。
掃除を終えると、僕はスマホで電話をかけた。自首くらいは、するべきだろう。
法治国家の理不尽に、個人の正義は抗いきれない。
警察を招き実況見分。この精液は、僕のじゃないよ。強姦事件は別件だ。
◇◆◇
「またこの季節がやってきた」
僕は樹を見てつぶやいた。その樹は花を咲かせていた。
出所後は、両親とともに田舎に住んだ。貯金を崩して農地を買って、自給自足で細々と。
世間の声は、心がなかった。僕は汚物を掃除しただけ、なのに両親ともども村八分。
この両親も、どうかしていた。服役中の面会で、涙ながらに謝っていた。
「ごめんなさい、こんなことする子に育てちゃって。なにがいけなかったか教えてくれない?」
強いていえば、裏口入学させてくれれば望遠鏡に手をつけなかった。でも、それだけ。
これは不幸な事故だったんだよ、僕自身の不注意がゆえの。
咲く花につい目を向けてしまい、散った花びらに足が滑った。僕としたことがやってしまった。
嫉妬もされていたんだよ、僕ら家族の優美な身分が。
だからこれ見よがしだったんだ、醜劣な民は目ざとかった。
この樹の寿命は数百年。その間は、青々と葉をつけ淡紅色の花を咲かせ続けるだろう。
「青木 桜」
僕の優美を奪った名前、この樹のせいで忘れられない。
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