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序 たそがれ
「ひとつだけだよ、お客さん。あの世に持っていけるのはひとつだけだよ」
そう言って店の女主人は、さも愉快そうに両手を広げた。美しい紅色の唇が、にやりと歪む。
店内を照らすランプが、女主人の白い着物を夕焼け色に染めている。外の空と、まったく同じ色。
早瀬はちらりと店の外を見た。誰もいない通り。最初にここに入ったときより通りは暗く、向かいの店はすでにぼんやりした影となっている。蒸し暑い店内で、冷や汗が止まらない。
日没が近い。
時間がない。
せまい店内を見渡す。どの棚にもぎっしりと、「商品」が詰まっている。
何枚もの写真、ユニフォーム、棚沿いに停めてあるバイク。見れば見るほど、どれを選んでいいのか分からなくなる。
ひとつ取れば、他のものとは永遠に別れなくてはいけない。
選ばなくてはならない。
選んで、買わなければ。
「さあ」
と、女主人がうながした。
早瀬は店の真ん中で目を閉じ、これまでの人生を――思い出せる限りすべてのことを――思い起こした。
この奇妙な店に、来るまでのことも。
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