10人が本棚に入れています
本棚に追加
/3ページ
こんなモテ期も悪くない
「鎧塚さんを呼べ!」
今日も、誰かが鎧塚美琴を呼んでいる。美琴がどこに身を置いていても、切実な声で救いを求める者は後を絶たない。制服のプリーツスカートを番傘のように翻した美琴は、クラスメイトたちからの声援を一身に浴びながら、呼び声に従って教室を出る。新しい戦いの場が美琴を呼ぶなら、今日も受けて立つまでだ。
そう気負いなく思えたのは、数日前の出来事のおかげだ。今日も誰かのために走りながら、美琴はこの高校に入学したばかりの頃を振り返った。
*
鎧塚美琴の高校デビュー計画は、入学三日目にして早くも暗雲が垂れ込めた。
「お願いだ、鎧塚さん。どうか我が剣道部へ入部してほしい」
昼休み中に一年一組まで来た男子生徒は、三年生を示す青いネクタイを締めていた。剣道部主将だという強面の先輩は、廊下に出てきた美琴へ熱心な勧誘を続けている。
対する美琴は、「私なんて、お邪魔になるだけだと思います……」と冴えない言い訳を口にして、相手が諦めるのを待っている。教室に助け船を求めても、さっきまで一緒に弁当を食べていた茉優は、女子グループの輪の中から興味津々の顔を向けるだけだ。熱烈な誘いをのらりくらりと躱す美琴の脳裏を、猜疑と焦りが埋め尽くした。
――なぜ、美琴の素性を知る者がここにいる?
鎧塚家は、あらゆる武術に秀でた家系だ。両親、祖父母、親類縁者に至るまで、剣道、柔道、空手道など、さまざまな武道に長けている。格闘家の経歴を持つ親戚の手ほどきを受けた美琴も、異種格闘技戦の経験が何度もあり、よその家庭でも似たような日常を送っているものだと思っていた。
認識の誤りには、徐々に気づいた。どうやら世間一般の少女たちは、小学校のいじめっ子を一本背負いで投げ飛ばしたりしないし、給食のプリンをこっそり二つ食べようとした悪童の手首を極めたりしないし、中学校の通学路に湧いた不審者にジャーマンスープレックスをかけて撃退したりしないようだ。いずれの行為も教師から大目玉を食らって反省したが、同級生たちからは大いに感謝されたので、美琴も気を良くしてしまった。
幼い頃が、思えば一番楽しい時期だった。厚紙で作った長剣を振り回した美琴は、よく男子たちの輪に交じって遊んだものだ。
だが、偽物の長剣が剣道部の竹刀に変わる頃には、男子たちは美琴から遠ざかった。代わりに、天誅を必要とする悪人ばかりが、誘蛾灯に誘われる羽虫のように集結したのは、何らかのトラブルが勃発するたびに「鎧塚さんを呼べ!」と誰かが美琴を呼ぶからだ。美琴の勝利伝説はいつしか市内に轟き渡り、札付きの不良もひれ伏す驚異のゴリラとして名を馳せた。中学校で『鎧塚美琴ファンクラブ』なる怪しい同好会が発足されたと聞いた時には、人生に三回は訪れるというモテ期の到来を予感して胸が高鳴ったが、破壊神として崇め奉られていると判り、美琴はついに決心した。
隣町の高校を受験して、美琴のことを誰も知らない土地に行く、と。
怪力と武術を封印すれば、普通の女の子になれるはずだ。あわよくばモテ期も到来すれば、薔薇色の学園生活は約束されたようなものだ。
廊下で熱弁を振るう先輩を見ていると、対面の窓ガラスに薄く映し出された現在の美琴と目が合った。万年ベリーショートだった黒髪は、毛先をブレザーの肩まで届かせた。櫛で入念に梳いた前髪には、天使の輪が光っている。
擬態は、問題ないはずだ。それでも正体が露見したということは、隣町にも美琴の勝利伝説が伝わっていたのだ。舌打ちして指の骨をバキバキ鳴らしたくなる衝動を抑えながら、美琴は先輩にしれっと嘘をついた。
「先輩は、人違いをしていると思います」
「え? そんなはずはないよ。鎧塚という名字は珍しいし、剣術家・宮本武蔵の生まれ変わりと謳われた最強の女の子を、僕らが間違えるわけが……」
「そっ、そんな人、知りません!」
ちょうど予鈴のチャイムが鳴ったので、美琴は頭を下げて教室へ逃げ込んだ。「僕たちは、諦めないからっ! 五時間目の部活紹介で、我が部の魅力を伝えてみせる!」と息巻く暑苦しい声が追ってきたが、聞こえないふりを決め込んだ。戻ってきた美琴を迎えた茉優が、小首を傾げて訊いてくる。
「美琴、先輩はなんの用事だったの?」
「人違いだったみたい。それより、みんなで何を話してたの?」
「ああ、速水くんって格好いいねって話」
速水玲の名前は、美琴も真っ先に覚えていた。今も窓際で級友たちと談笑している男子生徒は、爽やかな雰囲気のイケメンだ。誰にでも優しそうな笑みを振りまく速水玲でも、美琴の秘密を知れば表情筋を引き攣らせるかもしれない。そんな想像をすると寂しくなったが、要はバレなければ問題ないのだ。
――そう高を括った矢先に、事件は起きた。
最初のコメントを投稿しよう!