悔恨喫茶店

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 あるところに、喫茶店がありました。  店内はBGMなど無く質素で雑然としていますが、お客さんたちは各々自由に過ごしています。  食事をする人。お酒を飲む人。新聞を読む人。寝ている人。ジョギングしている人。釣りをしている人。  そんなお客さんたちの姿を、この喫茶店の店主はカウンターの前に立って微笑みながら見ています。  お客さんがやって来ました。 「いらっしゃいませ。何になさいますか?」店主がにこやかに言います。 「『キャッチボールをしたい』のですが、できますか?」  30代半ばくらいの紳士な男性は、遠慮がちに注文しました。 「ご用意いたしますので少々お待ちください」  店主はカウンターの奥に下がりましたが、すぐ戻ってきました。 「5分ほどお時間いただきますけどよろしいですか?」 「大丈夫です」そう言ってその男性はカウンターの前にある待合用の椅子に腰掛けました。  店主はカウンター越しにその男性に優しく話しかけました。  「差し支えなければ、どういった経緯でこのご注文なのかを教えていただけますか?」 「まあよくあることで」そう言って男性は語り始めました。 「私はある日小学2年生の息子とキャッチボールをする約束をしました。でもお恥ずかしながら私は昔から体育の成績が非常に悪く特に球技なんかはからっきし駄目なんです。かといって、お父さんは下手だからやらないというのは父としての威厳に関わるし息子にも悪いと思い、仕事が終わったあとこっそり練習することにしました」  ほうほうと店主が頷いていると、すみませんと聞こえてきました。お酒を飲んでいるお客さんに店主が呼ばれたようです。店主はすみませんとそちらの客さんの方に行きました。何やら話をしていましたが、すぐ終わりました。笑顔の店主とは対照的に、そのお客さんはなぜか涙を浮かべながらお酒を飲んでいます。  店主は早足にカウンターへ戻ってきました。 「大丈夫ですか?」男性は店主を気遣って言いました。 「すみませんでした」店主は申し訳なさそうに会話に戻り、男性に質問をします。「練習をなさった?」 「そうなんです。バッティングセンターに行きまして、他のお客さんがマシンから出てくるボールを打つ中、私一人マシンから出てくるボールをグローブでキャッチする練習をしました。一番遅い60キロの速度のボールです。一番遅い速度と言っても、私の並外れた運動神経の悪さでは全く取ることができず、何度もボールを撮り損ねて体に直撃しました。それでも毎日通い、60キロならなんとか取れるようになりました」 「それじゃあ息子さんとのキャッチボールは上手く行ったんですか?」 「それが予想外のことが起こりまして」 「何です?」 「実は息子はひと月ほど前に少年野球チームに入っていたのです」 「ご存知なかったのですか?」 「ええ。正確には忘れていたのです。仕事の疲れのせいか、息子との会話はぼんやりとしか覚えておらず、言われてみればそんな会話をしていたのを、キャッチボールの前日に息子に言われて思い出しました」 「そうでしたか」 「子供はひと月もあれば驚くほど成長します。息子も例外ではなく、しっかりとしたフォームで投げていました。幼稚園の頃は周りの子と同じようにヘンテコな投げ方でボールを投げていたのに」 「子供の成長には驚かされますね」 「そうなんです。でも、さらに驚かされたことがありました」 「何です?」 「所属している野球チームでは、6年生と一緒に試合に出ているというのです」 「6年生に混じってまだ始めたばかりの2年生がプレーするというのは凄いですね」 「そのようですね。しかも6年生に比べてまだ体も小さいですから。監督さんには、プロ野球選手になれる素質があると言われているそうです。なんだか親バカですみません」 「いえいえ、すごいことです。そんな息子さんが相手ではキャッチボールも大変だったでしょう?」 「それはそれは。散々なものでした。息子の投げるボールは60キロどころではありません。もっと速いのです。私がそんなボールを取ることなんてできるはずもなく、何度もボールを体に当てたり後ろに逸らしたりしました。でも大変なのはそれだけじゃなかったのです」 「何です?」 「キャッチボールというのは受け取る他にも相手に投げ返すという作業もあるでしょう?」 「ありますね」 「投げるという作業を蔑ろにしていました。スポーツを全くやってこなかった人間なのに、私は心のどこかで投げるくらいなら簡単にできる。家でティッシュをゴミ箱に投げているじゃないかと高を括っていたかもしれません」 「それで、全然投げ返せなかったのですか?」 「そうです。最初は短い距離で問題なかったのですが、少しずつ息子は離れていきまして、ある程度の距離になってくると、息子が普通に投げているのに私の投げるボールは全く息子のところまで届かず呆れられる始末。終いには息子が、パパの投げ方が悪いと手取り足取り教えてくるのです。『パパ、一年生の裕太くんより下手だよ』って」 「親の威厳も何もないですね」店主は、父親としての経験を共有して楽しげに笑いました。 「そうなんです。情けなさで頭がいっぱいになっているときにボールを後ろに逸らしてしまい道路に飛び出たんです。そして注意力が散漫になっているところを車に轢かれてしまいまして、今に至る次第です」  そのときバックヤードの方から店主は呼ばれ、失礼しますと言って奥に下がっていき、少しして戻ってきました。 「お待たせいたしました。『キャッチボールをしたい』のご用意ができました」店主は優しく声をかけます。「息子さん、立派なプロ野球選手になれるといいですね」 「はい。できればもっと長生きして息子がプロ野球選手になってから、キャッチボールしたかったです。プロ野球選手のボールなら、取れなくても誰も笑わないでしょう?」その男性は後悔を一切忘れたかのようにあははと笑いました。  店主は笑顔で応えました。店主には男性に対して一つ疑問がありました。 「失礼を承知で一つお伺いしますが、ご自分でおっしゃるほど運動神経が悪いあなたから、どうしてプロ野球選手を目指せるほどの息子さんがお生まれになったのでしょうか?その辺は遺伝があると思うのですが」 「妻の遺伝でしょうね。妻は過去のことをあまり教えてくれませんでしたが、かなり運動はできたようです。バレーボールで全国大会に行ったことがあるほどだったとか。ただ、知り合ってから一度も二人でスポーツをした記憶がありませんので、運動ができるのかどうか、目の当たりにしたことはなかったですね」 「息子さんの能力を考えると奥様のお話は本当のようですね」 「ええ。それにしても、両親ともに亡くすとは、我が息子ながら大変な人生になりそうです」 「奥様はすでにお亡くなりなのですか?」 「2年ほど前に病気で亡くなりました。妻が亡くなったとき、まだ5歳だった息子は泣きじゃくって大変でした。『お母さんは疲れたから少しの間、眠ることにしたんだよ。お前がいい子にしていたら、お母さんは目を覚ますよ』と言って宥めました。妻が亡くなってから私は息子と実家に戻り、両親と住んでいました。私の両親は孫を自分の息子のように可愛がってくれました」 「そうでしたか。不躾な質問、申し訳ありませんでした」 「いえいえ」 「それでは、次に生まれ変わるときに後悔のないようにキャッチボールを心に刻んでください」 「はい。ありがとうございます」  男性はキャッチボールできるスペースへゆっくりと歩いていきました。  奥の方で泣きながらお酒を飲んでいた人は、酔っていなければ防げた自分の死を嘆いていたのです。それだけではなく、家族を残して死んでしまったことを後悔していたのです。でももう気持ちは晴れたようで、次はお酒の失敗で後悔しないと誓って、喫茶店を出ていきました。  次に20代くらいの男性が来ました。表情は晴れやかで、後悔があるようには見えませんでした。 「いかがいたしましょう?」店主が注文を伺います。 「ちょっとまだ注文がまとまっておらず。ひとまず私の話を聞いていただけますか?」 「どうぞ」店主は優しい笑みを浮かべて答えた。 「私が彼女に初めて出会ったのは小学6年生の頃でした。  当時私はバレーボールクラブに所属していて、自主練習で毎朝自分で決めたコースを1時間ほどランニングしていたのですが、その途中でときどきすれ違う同じくランニングしている女の子がいました。 最初は偶然すれ違う子に何の感情も抱きませんでしたが、ランニングを始めて1ヶ月くらい経った頃でしょうか。私が彼女を意識するきっかけとなる出来事が起こりました」  男性は淡い恋の思い出を語りながら陶酔しているような表情を浮かべています。 「ある日、大きな公園の周りをランニングしていると前方からこちらに向かってくる彼女が見えたのです。特に意識することなく走っていると、すれ違う少し手前で彼女がジャージのポケットに入れていたハンドタオルを落としたのです。彼女は落としたことに気づかず走り去っていったので私はそれを拾って彼女を追いかけました。そして彼女の背後から肩をポンと触れて「タオル落としたよ」と声をかけたのです。すると彼女は振り返って立ち止まり、その場で軽くランニングしながら「あ、ありがとう」と言ってタオルを受け取り笑顔を浮かべ、また走り去っていきました。それが初めての会話です。そのときの笑顔は今も鮮明に覚えています。自分で言うのも何ですが、運命的な出会いだと思いませんか?」 「そうですね。とても運命的で素敵な出会いですね」店主はにこやかに返しました。 「どこに住んでいるのだろう。私と違う学年なのだろうか、それにしても学校で見たことがない。隣の校区の子だろうか。今度話しかけるときはそのことと名前を聞いてみよう。私はそう思いました。しかし、その後も早朝ランニングで何度もすれ違いましたが話すどころか目を合わせることすらできませんでした。お互い多感な時期ですから」 「意識し過ぎて恥ずかしかったのでしょうね」 「そうだと思います。それ以降、小学校を卒業するまでずっと同じ状況が続きました。そして中学進学後、彼女を見かけることは無くなり私も自然とランニングを止めていました。  それなので彼女がどこの学校で何のスポーツをしている子なのかわからないまま時は過ぎていきました。でも私が彼女のことを忘れることは一度たりともありませんでした」  店主は思春期の淡い思い出に共感するように、うんうんと頷いていました。 「そして高校の入学式、驚くべきことが起こったのです」 「彼女に出会ったのですか?」店主は前のめりに会話を先走りました。 「そうなんです。しかも同じクラスでした」 「それは奇跡的な再会ですね」店主は微笑ましそうでした。 「本当に嬉しかったです。彼女の名前は中之島彩。うちの高校はバドミントンの強豪校なんですけど、そこに所属していることもわかりました。さらに嬉しいことに、あのときのランニングを覚えてくれていました。あの後彼女はバドミントンの名門中学に進学し、早朝の部活が忙しかったため、日課のランニングはできなかったとのことでした」 「その女性とは親しい仲になったのですか?」 「いいえ。その会話以降、話すきっかけが見出せず話せませんでした。なので、思い切って他愛ないことで話しかけてみようと思い、彼女の部活が終わるのを待って偶然を装い一緒に帰宅するという計画を何度か試みました。しかし勇気が出ず話しかけられませんでした」 「なかなか距離が縮まりませんね」 「入学式以来、会話があまりないという状況が半年ほど続いたある日、彼女にあらぬ噂が立ちました」 「何です?」 「彼女が、一つ上のサッカー部の先輩と付き合っているらしいと。そんなはずはないと思いました。彼女はバドミントンに打ち込んでいる真っ最中です。小学生の頃からずっと努力してバドミントンの名門高校に入学してまだ半年です。そんな状況の彼女が恋愛をするのだろうか。いや、それ以前に私との運命的出会いがあるのにそっちを蔑ろにして、出会って半年の先輩と付き合うだろうかと不信に思いました」 「なるほど」 「私は勇気を出して彼女に真偽の程を確かめることにしました。放課後、部活に行こうとしている彼女を呼び止めて、先輩と付き合っているの?と聞きました。彼女からの返答は『そうだよ』でした。皆に知れ渡ってるんだねと言って顔を赤らめた彼女は鞄を持って部活に向かいました」 「いやはや思春期ですね」店主はこの男性の甘酸っぱい思い出に共感と同情の思いでした。 「そういうものですかねぇ?私は当時納得がいかず、それ以降高校生活で彼女と話すことはありませんでした。精神年齢が幼かった私は、拗ねてしまったんです」 「それは残念でした」 「そこから時は経ち、28歳になったときのことです。街で偶然彼女と再会しました。高校卒業から10年が経過していましたが、私が彼女のことを忘れたことは一日たりともありませんでしたのですぐに彼女と認識できました。  彼女は10年前のあのときのまま大人になったという雰囲気で、ほとんど変わっていませんでした。唯一変わったところは、見知らぬ男と子供が横にいたというところです」 「結婚していたのですね?」 「そうなんですかねぇ?気づいたら私は彼女の後を追いかけていました。そして男と子供が離れたタイミングを見計らって彼女の前に立ちはだかり、覚えてる?と声をかけたのですが、どちら様ですか?と言われました。ショックでした」  男性は小刻みに震えていました。  そうですかと店主は悲しげに話を聞いていました。 「あまりのショックで、衝動的に彼女を刺してしまいました。その後私も後を追って自害しました。今ではとても後悔しています。どう注文すれば良いでしょうか?」 「好きな人を死なせてしまったことを後悔していらっしゃるのですね?」  店主は悲しそうな目で男性を見つめていますが、男性は落ち着いた表情でこう言いました。 「何をおっしゃるのですか。死なせたことに後悔はありません。そうではなく、もっと早く告白すべきだったと後悔しているんですよ。小学生で告白すべきだったか高校生で告白すべきだったか。高校の卒業式で告白すべきだったか。はたまた、街で見つけて刺した後に告白すべきだったか。私はどう注文すればよいのでしょうか?」  男性は生前の淡い思い出を振り返り、恍惚の表情を浮かべていました。
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