1 箱の中

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 はっと目を覚ますと同時に、とてつもない違和感を覚えて吐き気を催した。夢から覚めたはずなのに、まるで、現実から夢の中へ「さめた」ような奇妙な感覚。夢から覚めた気がしたら、まだ夢の中だったというような、あれともまた違う。  俺は眩暈や吐き気と戦い、顔を顰めながらゆっくりと身を起こす。  見慣れた天井の木目に、体に馴染んだ安っぽいベッドの感触。どちらもいつもと同じだが、何かが違う。    濃紺色のカーテンは閉め切られ、外が明るいか、暗いかも分からない。一方で壁は目に眩しいほど白く、シミの一つもない。コントラストが強すぎて目がチカチカする。  周囲を見渡していると、録音されたテープのように機械的な男の声が響いた。 「おはよう」  人の気配が突然降って湧いたように現れたことに驚き、声のした方を見れば、男がベッドの端の方にあぐらをかいて座っていた。黒いTシャツに、腕に一本白いラインの入った黒いブルゾン、同様のデザインのスウェットを着こなし、髪型は黒髪を無造作に流している。気怠い印象を与える外見だが、男の目つきが宝石を目の前にしたカラスのようで、どこか油断がない。 「おはよう」  俺が返事をするまで繰り返すつもりだろうか。今度は僅かに意思の籠った声で挨拶をし、俺の方へとにじり寄ってくる。  俺は後ずさりながら、催眠術にでもかかったように男から目を離せなくなった。  気がつけば、背中に壁の感触がして、逃げ場を失った瞬間だった。 「うっ……」  その男の顔が奇怪に歪んだかと思うと、瞬きをした途端に顔が真っ黒に塗り潰された。さながら、顔にブラックホールでもできたように。  直視すればするほど吐き気が込み上げ、俺は男から目を逸らし、慌てて洗面所へ向かう。胃の内容物を全て戻した後、口をゆすいでいると、するりと右耳に声が潜り込んできた。 「夕晴、大丈夫?」  凛とした美しい声だが、どこか作り物めいている。 「うん……」  応じながら、男の顔を見ないように逸らす。 「夕晴……」  男が近づいて来て、俺の右頬に触れる。何度かそっと撫でられるうち、男が誰なのかを思い出し、落ち着きを取り戻していく。右頬に触れている手に自分の手を重ね、ひんやりと心地いい感触を楽しみつつ、一度強く目を閉じる。  深呼吸をしてゆっくりと開いていけば、ようやく男の顔が見えた。 「蒼真、もう大丈夫」  俺の言葉に蒼真がほっとしたように笑う。男女問わず虜にしてしまう笑みにどぎまぎしながら笑い返した時、着信音が鳴り始めた。メロディですぐに自分のものだと分かり、急いでリビングに向かおうとすると、蒼真に手で制される。 「蒼真?」  蒼真は首を横に振り、先にリビングに入ると、未だ着信音を響かせている俺のスマートフォンを手に取り、躊躇いなく電話に出た。 「そう……」  電話を取り返そうとしてもするりと避けられ、人差し指を立てて黙っているように指示される。 「なん……」 「はい。金浦先生ですか?……はい。ああ、それなら今から連れて行きます」  蒼真の目がちらりと俺を見て、相槌を打ちながら通話を終える。  金浦という名前を聞いて、すぐに蒼真がなぜ代わりに出たのか分かった。俺は溜息をつきながら、蒼真を睨むように見る。 「そんな目で見ても駄目だよ」 「……知ってる」  俺はもう一度溜息をつき、蒼真から目を逸らす。  金浦は蒼真の知人で、心理カウンセラーをやっている。俺が蒼真に思わず悪夢のことを打ち明けたせいで、金浦に話が伝わり、蒼真を介して俺にカウンセリングを受けるように勧めてくるようになった。もちろん、そうするように仕向けたのは蒼真だ。その証拠に、俺の連絡先がいつの間にか知られている。 「不貞腐れてる?」  蒼真が楽しげな声を出す。何か反論しかけたが、蒼真の目を見て言葉が詰まった。心配の色が浮かんでいたからだ。 「……ごめん」  知らず、俺の口からそんな言葉が零れていた。蒼真は微かな笑みを浮かべると、俺の頭にぽんと手を置き、財布とスマートフォンを手に玄関口へ向かう。  目で追いかけていると、靴を履いて振り返り、手招きされた。 「行くよ」  どこへと聞くまでもなく、行先に検討がついていたため、上着を羽織り、軽く息を吸って後に続いた。  外に出た途端、少し肌寒い風が吹き、何かの花の香りが鼻腔をくすぐる。  辺りを見渡して何の花か確かめようとしたが、遠くであの音がして注意が逸れる。耳を澄ませたわけでもないのに、音がどんどん近づいてくるような気がして、俺は両耳を押さえた。 「夕晴?」  立ち止まっている俺に気づいた蒼真が、心配そうに近づいてくる。だが、蒼真が俺の目の前に来た瞬間、本当にそんな顔をしているか分からなくなった。 「夕晴?」  蒼真の顔が、またぐにゃりと歪む。俺は吐き気を何度も生唾を飲み込むことでやり過ごし、ぎゅっと目を閉じ、一つ深呼吸をした。  これが起こるのはいつも突然だが、一日のうちに何度も起こるのは最初の時以来だ。そこまで考えて、ふと、最初がいつだったかを思い出そうとするも、浮かぶのは悪夢の光景ばかりで、余計に具合が悪くなりそうだったのでやめておいた。 「夕晴」  もう一度蒼真が俺の名を呼び、肩に手を置いてくる。一瞬、なぜだかそれを振り払いたい衝動に駆られ、首を左右に振りながら、気付かれないようにそっと身を引く。 「平気。行こう」  いっそ具合が悪いことを訴えた方が行かずに済むかもしれない。だが、いつまでもそうして逃げられるものではないことも分かっていた。  蒼真は俺の肩を支えようとしたのだろう、手を伸ばす素振りをしたが、途中でやめて前を歩き始める。  黙ってその後に続きながら蒼真のすらりとしたシルエットを見て、誰かの残像が一瞬重なった。
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