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ああ、美味しい。
思わず零れたその言葉に押されて、目の前で香ばしい湯気が揺らぐ。
湯気の向こうでは風変わりな眼鏡をかけた田所良太と名乗る三十歳ほどの青年が、私に声を掛けたときと同じ笑顔で満足そうに頷いている。
「ここのカフェオレ、大好きなんです。水瀬さんに気に入ってもらえてよかった」
笑い皺の浮かんだ顔に、本当に美味しいです、と答えかけて私はふと冷静になる。
なぜ私は青葉通りの裏にひっそりと立つ喫茶店で、本格的なカフェオレを飲んでいる?
私は元が付いた旦那との最終面談を終え、人で賑わう二月の空の下を家に向かっている途中で、この青年にナンパされたのではなかったか?
──良かったら、ご一緒にコーヒーでも飲みませんか?
あまりに古典的な誘い文句に毒気を抜かれたとは言え、いったい誰が言葉を額面通りに受け取って、こんな昭和の写真を切り取ったかのような純喫茶で苦みの走るカフェオレを堪能する未来を期待するというのだ。
「あの、こんなこと聞くのもあれなんですけど……ナンパ、したんですよね? 私を」
我ながら情けない質問をしたなと呆れたが、どういう訳か田所はマグカップを持つ手をぴたりと止め、驚いた様子で私を凝視した。
「え、ナンパなんてそんな。ただ、なんとなく……」
本当に頭のどこかで、かちん、という音がした。
私はいわゆる世間一般という括りからは少し外れているのだと自覚している。
容姿は同年代の女性よりも頭ふたつは抜けている自負があるし、仙台に拠点を置きつつ、日本中に名前を知られる電子機器メーカーで二十代にして既に係長職に就いている。
仕事に感情は挟まず、冷徹で仕事のできる女、という自分を追い求めるあまり、周りから鬼だの夜叉だの陰口を叩かれていることも承知の上だ。
そんな世の女性たちが憧れてやまないであろうクールなワーキングウーマンを自称する私のプライドが、嫌でも口調に怒気を孕ませた。
「はあ? 私に声を掛けた理由がなんとなく? 私のことバカにしてるんですか?」
今の私がまさに同僚が恐れをなす、眉間に鬼がいると揶揄される状態なのだろう。
勢いに気圧されたらしき田所に、なお辛辣な追撃を加えようとしたそのときだった。
「なんだかとても、悲しそうに見えたんです。だから美味いコーヒーを飲んでほしくて」
淀みなく発せられた言葉に、思わず間の抜けた声が漏れる。
多額の慰謝料を手にし、仮面夫婦という呪縛から解放されたばかりの私が、悲しそう?
いや待て、どうも合点が行かない。
私は彼らに三年半に渡る空虚な結婚生活の勝者が誰だったのかその身をもって理解させ、弁護士いわく完全勝利という名の決着に満足している……はずなのだ。
追撃の機会を逃した私の目の前で、田所は寂しげな顔を覗かせてから口を開いた。
「ごめんなさい、僕はそう見えたってだけなんです。あんなに人通りの多い道で、ひとりでどこか遠くをじっと眺めていらしたから、つい……」
きいん、という甲高い音が聞こえ、夕焼けに染まる青葉通りのビル群が瞼に浮かんだ。
あのとき立ち止まった私の脳裏によぎったのは、土下座をする元旦那と浮気相手の姿と、彼らのすべてをむしり取ったあとに残った空虚な優越感に対する自責の念だった。
いや違う、あのとき私はその空虚さをどうにかして正当化したかった。
つまるところ私は、自分を苛む後悔からちっぽけなプライドを守りたかっただけなのだ。
まるで恥部を露にされたような怒りが沸くのと同時に、ずっと溜め込んでいた黒い塊が感情と混ざり合って喉をせり上がってくる。
「そう。確かに声を掛けられたとき、私は悲しかった! でも私の心を見透かしていい気にならないで。この虚しさがあなたに分かるわけない!」
店には私たちの他に数人の先客しかいないとはいえ、クールビューティーという言葉がひどく滑稽に思えるほど、私は言葉を荒げて田所に食って掛かった。
しかし田所は顔色ひとつ変えず、まるで私の眉間の鬼に語り掛けるように微笑む。
「水瀬さんは優しい方ですね。こんなに怒っていても周りのお客さんに迷惑が掛からないように、ちゃんと声のトーンを落としていらっしゃるんですから」
変わらぬ田所の笑顔を見つめながら、まるで次の言葉が見つからなかった。
予想していなかった角度からの言葉に怒気が萎み、呆気にとられたような笑いが漏れたその瞬間、私の負けは確定した。
吐き出した毒をことごとく受け流し、あまつさえ私の怒りをさらりと鎮めてみせた男。
この田所という悪意の欠片も感じさせない不思議な男は、出会ってからわずか一時間で私の中にどこか心地よい高鳴りを植え付けていた。
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