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扉の向こうから階段を上る足音が聞こえてきた。来客だと気付いて前髪を手で軽く整える。足音は扉の前で止まると、沈黙が流れ始めた。当店に訪れるお客さまは必ずと言っていい程すぐに扉を開けようとしない。決心をしているのだろう、私が覚えている中で最も長かったのは五分だったと思う。
およそ一分してようやく、ゆっくりと扉が開かれた。びくびくして、不安そうな、怪しんでいるような表情の男性がゆっくりと顔を出す。
「いらっしゃいませ、あけび質店へようこそ」
先生に言われた通り、ニコニコし過ぎず微笑みながらなるべく優しく声を掛ける。元気が良すぎる挨拶はお客様が委縮してしまうらしい。
「えーっと……二時に予約をしていた高原と言います」
扉を丁寧に閉めてから男性は自分の名前を名乗った。時間は一時五十五分。時間をちゃんと守る人のようだ。左手には当店のチラシが握られている。
「高原さま、お待ちしておりました。それではスリッパに履き替えて頂いて、窓際のテーブルへどうぞ」
年齢は二十台後半で身長は百六十五センチくらいだろうか、私より少し高いくらいで髪は耳が隠れるくらいに伸ばしている。ジーンズに無地の白いシャツ、グレーの無地のパーカーでどこにでも居そうな人だ。帆布のトートバッグには書類が詰め込まれて重たそうだ。
「温かいお茶と冷たいお茶、どちらに致しましょうか?」
窓際の応接用テーブルに高原さまを案内してから問いかける。しばらく考え込んだ後、
「温かい方でお願いします」と彼は告げた。
先週梅雨入りしたばかりで今日も朝から雨だ。それに風が吹いて肌寒い。少しでも落ち着きたいのだろう。当店のお客様は夏場でも温かいお茶を選ぶ人が多い。それくらい緊張している人ばかりだ。
「かしこまりました。それでは先生をお呼びしますのでしばらくお待ちください」
頭を下げ、そう告げて部屋の中央の扉からまずは台所へと向かう。冷蔵庫からミネラルウォーターを出して電気ケトルのスイッチを入れてから、今度は先生の部屋へと向かう。ノックを三回すると、「どうぞー」と間延びした声が聞こえて扉を開ける。
「先生、まだメイク中ですか?お客さま来てますよ!」
「最後、口紅だけ」
テーブルの上の鏡を見ながら必死の表情でメイクをしている。着替えもまだ終わっていないようだ。
「大体、二時って指定したのは先生なんですから早くしてくださいね」
「お昼寝の時間は大事でしょうが」
「毎晩遅くまでアイドルの動画見過ぎなんですよ。昼前まで寝ておいて、お昼食べたらまた寝る人がどこにいるんですか!私はお茶の準備するんで、早く行ってくださいね!」
台所でお茶の準備を終えた頃、ようやく先生が部屋から出てきた。黒い落ち着いたシャツにベージュのロングスカートを穿いて台所を覗いている。
「私だけ麦茶にしてよぉ」
「面倒なんでダメです。ほら、さっさと行く。何分待たせてるの」
先生を軽く𠮟りつけるとため息をついて応接スペースへと向かった。
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