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「僕は……いえ、私は子供の頃から漫画が大好きでした。漫画ばかり読んでいるものですからよく親から怒られましたし、少女漫画も読んでいたので友達からからかわれたりもしました。それでも漫画を読んでいる時間は本当に幸せでした」
さっきまで弱々しかった高原さまの声に次第に力が入り始めている。
「小学生だった時です、写生大会で最優秀を取ったんです。すると同じクラスの男の子が僕に言いました。『そんなに絵が上手なら漫画家になれるって』と。小学生なんて単純なもので、おだてられたらすぐに調子に乗り始めてしまいます。当時流行っていた漫画のキャラクターを模写してクラスメイトに見せてみると好評だったんです。それでいつしか将来の夢は漫画家になっていました。こんなのよくある話ですよね」
私と先生は軽く相槌を入れながら話を聞いている。
「中学、高校になっても僕は漫画のキャラクターを書き続けていました。お小遣いを貰うと勉強で使うノートと一緒にスケッチブックを買い、親から気持ち悪がられてました。親からすると将来を真面目に考えて参考書でも買って欲しかったのだと思います。勉強はダメでも、スポーツでも恋愛でもしろって話です」
高原さまはお茶を一口飲むと再びしゃべり始める。
「高校生のある時、思い切って漫画を描いて応募してみたんです。とある雑誌のコンテストの学生部門に。すると一番下の賞ですけど、奨励賞を貰ったんです。本当に嬉しかった。審査員の先生からは人物の描き方をとにかく褒めて貰って何度もそのページを見返しました。けれど……」
そこまで話して顔が急に暗くなった。
「けれど、それっきりでした。そりゃあそうです。肝心の話の内容は大したことありませんでした。大学生になり、社会人になり、空いた時間で作品を描いては応募してみたのですが、さっぱりです。気付けばもうすぐ三十路です。なので……なので、諦めるために今日はここへ来ました」
先生とふたりして「ふぅーむ」と鼻息を吐く。漫画という世界には同じような人は沢山いるのだろう。よくある話なのだろう。しかし、実際に夢を諦めた人から直に話を伺うと想像以上に重い話だ。高原さまが漫画に賭けてきた情熱は本物だろう。私たちはその決断をしかと受け止めなければいけない。
「高原さま、参考までに何か作品をお見せ頂けますか?」
先生が口を開くと、それを聞いて高原さまは慌ててトートバッグを漁り始める。出てきたのは一冊のスケッチブックと、漫画原稿だ。
「こちらが練習で使っているスケッチブックで、こちらが例の奨励賞を貰った原稿のコピーです。どうぞ」
「お預かりします」
先生は賞状を受け取る様に両手を出すと、「拝見します」と一言呟いてから、首にぶら下げている老眼鏡を掛けて真剣な目でページをめくり始めた。
「あの、お手洗いを貸して頂けますか?」
「ご案内します。こちらへどうぞ」
高原さまをトイレに案内してからテーブルの上の湯飲みを片付ける。
「お茶のおかわりを準備してきますね」
お客様が目の前にいないのを良いことに、先生は現行に目を落としたまま「ん」とだけ言って左手で返事をする。もう少し緊張感を持って貰いたいけれど、期待は出来なさそうだ。十年以上注いで来た情熱をこんな態度で査定される高原さまが不憫でならない。
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