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地雷の女
「あれ、誰ですかねぇ」
玲奈のとなりでマネージャーの未希がいった。ふたりを乗せたタクシーは事務所の入るオフィスビルにむかって徐々にスピードを落としていた。
夏の始まりの夕暮れ、まだ人の顔がわかるくらいには明るい。
玲奈の視線の先、ビルを出たところに、悠人は立っていた。向かいに立つ女には見覚えがない。ふたりは無言のまま見つめあっている。
玲奈の眉間にしわがよる。
ゆるせない。
悠人が自分以外の女を見つめるなど。もっとゆるせないのは、ふたりの間に漂う訳あり感。
誰だ、その女。それほど背は高くないが、引き締まった体をしているのは見てとれた。年のころなら、悠人より少し上か。よく日に焼けて、長い髪も赤茶けている。潮焼けだ。そのせいで少し老けて見えるのかもしれない。
あの感じは知っている。マリンスポーツをする人間だ。地元のサーファーの友だちがそうだった。
「ダイビングなんかぜったいやるなよ」
以前に悠人がいった。かちりとなにかがハマった気がした。
いけない。あれは悠人の地雷だ。
「ゆるせん」
低い玲奈の低いつぶやきに、未希がびくっとした。
「わ、わたし行きましょうか」
「……いい。わたしが行く」
タクシーはふたりの数メートル前で止まった。ドアが開くのももどかしく玲奈は車を降りた。
「悠人」
呼ぶ声に剣が混じるのはしかたがない。ゆっくりとこちらをむいた悠人の顔からは表情が抜け落ちて、目は宙をさまよっていた。玲奈の眉間のしわはさらに深くなる。
「悠人」
もういちど呼ぶと、悠人の目はだんだんと焦点を結んでいく。そしてその目に玲奈を認めると、いっしゅん泣きそうに顔をしかめた。そのままつかつかと大股でやってくると、がばっと玲奈を抱きしめた。首元に顔をうずめると、においをかぐようにスーハーと大きく息をする。
悠人が煮詰まったり、不安定になったときによくやる仕草だ。玲奈はあやすように背中をポンポンとたたいてやる。
「熱烈ですねぇ」
タクシードライバーがいった。
「いつものことですよ」
笑いながらそう答えた未希は清算をすませると、抜かりなくそこに立つ女を写真に収めた。
「もどりますか?」
未希の問いに
「うん、いったんもどろう」
玲奈は答えた。ふたりで悠人をはさむようにビルに入っていく。立ちつくしている女は無視して素通りした。女はなにもいわなかった。ちらりとも見なかったから、どんな表情をしていたのかもわからない。
いずれ悠人に悪影響をあたえるものならば、排除しなくては。
三人はエレベーターに乗る。とくに話すこともなく事務所のある三階についた。エレベーターを降りると、玲奈は悠人をつれてアトリエに入る。未希はスマホを掲げて玲奈に合図をすると事務所に入っていった。涼太郎に報告するのだろう。よく気の利く子だ。
アトリエに入ってドアを閉める。いつもの作業用のいすに悠人をすわらせて、その前に玲奈は立った。
「出かけるところだったの?」
「……気晴らしにコンビニに」
「あれは誰?」
悠人は口ごもる。
「わたしにいえない女?」
「……いや。昔の彼女」
「あなたに会いに来たの?」
「わからない。あそこに立っていたんだ」
「別れたのはいつ?」
「……二十四のとき」
消え入りそうな声で悠人が答える。玲奈がそっと頭を抱いてやると、悠人はしがみつくように玲奈の腰に腕をまわした。
「理由を聞いてもいい?」
「わからない。小笠原へ引っ越すといって、いきなり出ていった」
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