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出ていくのか
悠人と彼女、加藤佳乃は服飾専門学校の同級生だった。気が合ってすぐになかよくなり、つきあうようになった。佳乃もデザイナーを目指していたけれど、悠人のように明確な目標があったわけではなかった。
卒業していっしょに住み始め、悠人はアパレルメーカーのデザイン部門に就職し、デザイナーのたまごになった。いっぽう佳乃はデザイナーの夢に挫折してショップ店員になった。もともと漠然とした夢だったのだ。
ふたりの生活に悠人は満足していた。どれだけへとへとに疲れても、家に帰れば彼女がいてそれだけで心は満たされた。ふたりの時間は悠人にはとても大切なものだったし、ずっと続いていくものだと思っていた。
二年ほどたったとき、佳乃はスキューバダイビングを始めた。知り合いに誘われて、伊豆に初心者の体験に行って、ハマったらしい。ライセンスを取り、スーツ一式を買い、まとまった休みを取っては沖縄や伊豆諸島に出かけるようになった。
「解放されるのよ」
佳乃はそういった。なにから解放されるのか、佳乃がなにかに束縛されているのか、悠人にはわからなかった。
佳乃はどんどんダイビングにのめりこんでいく。比例して悠人と過ごす時間はへっていった。さすがに悠人もおかしいとは思ったが、悠人自身も仕事に熱中していたので、佳乃に感じた違和感を放置してしまった。
そしてあの日。
悠人は残業が続いていた。若年層向けの新ブランドのプロジェクトに加わり、今まで以上にやりがいを感じて仕事に邁進していた。
残業を終えてへとへとになって帰ると、部屋の中には段ボール箱がいくつも積んである。
「なに、この段ボール」
そう聞くと佳乃の口から思ってもみないことばがとびだした。
「わたし、小笠原に引っ越すから」
すぐにはその意味が理解できなかった。
「え?」
「父島で民宿の手伝いをしながら、ダイビングのインストラクターをするの」
「ここを出ていくってことか」
「そう。ごめんね、急に」
「俺をおいていくのか」
「あなたはここでデザイナーになればいいでしょ。わたしは小笠原でインストラクターになる」
棘のあることばに、悠人は愕然とした。
「なぜ。俺がきらいになったのか」
悠人は情けなく聞くしかなかった。
「そういうことじゃないのよ。道は別れたの」
多少のすれ違いはあったものの、まだふたりは愛しあっているのだと信じていた悠人には納得などできるわけがなかった。でも佳乃はきっぱりと悠人を切り捨てた。
「あした、荷物を送ったら船に乗る。きょうは友だちの部屋に泊まるから」
「ちょっと待てよ。なんで勝手に決めているんだ。俺のことは無視か」
結局彼女はそのまま出て行ってしまった。取り残された悠人は、訳もわからず眠れないまま一夜を過ごし、仕事を休むわけにもいかず、真っ白な紗のかかった頭をかかえて仕事に出かけた。
機械的に仕事をこなして、家にもどるころには、きのうのことは夢だったのだろうと思いこもうとした。だからドアを開けて段ボールが消えていたのを、ほらやっぱり夢だったのだと思ったのだ
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