桜リセット

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 地方の小さな村に越してきて、半年が過ぎた。実際には、もう一年以上いるような感覚がしている。  私を取り巻く環境は、転校前とさほど変わらない。人と関わるのが煩わしくて、一人でいることにも慣れている。  唯一の癒しは、小説の執筆と古典の授業。と言っても、古文に興味がある訳ではなくて、単純に鳳来(ほうらい)先生の授業を聞くのが好きなだけ。 「いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな。これは昔の奈良の都で咲いた八重桜が、今日(こんにち)はこの平安時代の宮中に美しく咲いていると詠ったもので……」  和歌を詠む穏やかな口調は、まるで墓地に佇む教室をクラッシックのコンサート会場へ変えたように鼓膜を震わす。  少ない抑揚(よくよう)の中に大人の色気を感じながら、教卓に立つ鳳来先生を眺めた。  女子生徒の中には、裏で千景(ちかげ)くんと下の名で呼ぶ人もいて、密かに人気がある。  みんなが彼の端正な顔立ちや高い背丈に好奇の目を向けるように、私もこの落ち着いた声に惹かれていた。 『見慣れない桜並木を通り抜けると、ひときわ目立つ鳥居が現れて、奥には古寂(ふるさ)びた神社が(そび)え立つ。  羽織袴の青年が、じっとこちらを見据えている。  ーー行くな、()……行かないでくれ。  その瞬間、時空が歪んで見えた。  辺りが紅く包まれて、花のように散っていく。呼吸を忘れるほどに、その光景を眺めていた』  脳内に浮かぶ文字を、ルーズリーフに書き留める。  すらすらと文章が湧いて来るのは、ただのインスピレーションなのか。何度も見た文字の並びを、じっと眺める。 「……天ヶ瀬(あまがせ)さん」  それだけじゃない。きっとこの後、先生はあの話をする。 「天ヶ瀬桜沙(おうさ)さん」  甘く低い声を近くで感じて、ふと我に帰る。目の前に、顔を覗き込むようにする鳳来(ほうらい)先生の姿があった。
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