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どこからか風が吹き付けて、教室の中に桜の花びらが舞い落ちる。
黒板も生徒も全てなくなり、ほんわりとした白い景色に二人だけが残された。着物のような衣服を身にまとい、鳳来先生は小さな笑みを浮かべる。
「……やっと、その名を口にしてくれたね。千古」
優しく手を取る仕草や口調に、懐かしさが込み上げた。
いつしか神社の景色が現れて、褪せた写真が色づくように、満開の桜が顔を見せる。
忘れていた遠い記憶を、呼び覚ますかのように。
羽織袴の青年が、じっとこちらを見据えている。
彼の名は、千里。桜の樹の下で出会ってから、両親に隠れて落ち合うようになった。
千里との話は他愛のないものばかりだけれど、心から笑えたのは、彼と一緒にいる時だった。
約束した通り、今日も桜の樹の下へ向かう途中で、荒々しい罵倒が聞こえてくる。
『こいつは付喪神だ! 桜の精を名乗る妖怪だ。即刻、退治しなければならん』
するりと抜ける千里へめがけて、弓矢が飛び刀が振り下ろされた。
『ーーやめてください!』
身を潜めた樹の陰から飛び出したとたん、誰かに腕を引かれて動けなくなる。
武士たちが千里の両腕を押さえつけて、太い幹へ括り付けた。
『千古……僕を信じて。どこにいても、どんな形になろうとも、僕は、君を想っている』
肩を貫いた刃から桜の花びらが散り上がり、千里の体は消え去った。
炎が草木を焼き尽くすけれど、その桜の樹だけは何かに守られるように、何年も何千年も生き続けている。
握り返した温かな手に、ぽつり、またぽつりと水の玉が落ちてゆく。
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