第二十七話 クリシア

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第二十七話 クリシア

 戦乱の時代は終わり、ヴェナードの国が消えてから二年が経とうとしていた。  傷ついた諸国の復興も進み、どの国家も内政、外交ともに表面的な問題はなく、人々の暮らしも着実に豊かなものとなってきている。  その日、オラードで最も南にあるモルトナ郡の山間を、騎馬に護衛された馬車の一行がゆっくりと進んでいた。二頭立ての四輪馬車だ。小振りだが、造りといい控えめながら手の込んだ装飾といい、並みの貴族が乗るものではない。  窓には細木を連ねた日除けが下りていて、中は覗けなかった。  春の穏やかな日差しの下、前後を八頭の騎馬に守られながら馬車は進んでいく。  やがて一行は平地の街道へと出た。周囲に畑や野良小屋が見え始める。  ほどなくして、行く手にこのモルトナの中心であるラグネーゼの市街が見えてきた。城壁に囲まれた街に近づくにつれ、街道を行き来する平民の姿が増えていく。多くは周辺の村から城下へと向かう農民や小作人、荷物を持った行商人、旅人などだ。城壁の大門の前には長い列ができている。  馬車が民衆の列に追いついた。先を行く騎士たちが道を空けるように叫ぶ。その声に振り返り、のろのろと左右に分かれる民衆の間を、馬車が進む。  クリシアは、痩せた肘を窓枠にかけ頬杖をついたまま、日除けの隙間から、追い抜かれていく民衆を眺めていた。  昔、彼女の情熱の象徴ともいえた緋色の瞳に、車外の風景が映っては流れ消えていく。  誰もが後ろから強引に入ってきたこの馬車に驚き、次に迷惑そうな顔をし、しぶしぶと脇にどいていく。馬と車輪が跳ねる泥が彼らの服の裾を汚し、馬車が過ぎた後から、皆が小声でつく悪態がさざ波のように聞こえてくる。  どれも彼女の興味を引くことではなかった。  母親ゆずりの赤朽葉色をした波打つような髪は、肩を越えるほどに伸びた。兵士だった頃、長い髪なぞ煩わしく思っていた気持ちが、今では靄のかかった彼方のことの様に思える。  だが栄養の行き届かない髪はくすみ、櫛で梳いてもまとまらず、枯れた麦穂の束のようで、くまの取れない眼と共に、彼女を一層陰気に見せるだけとなっている。  左頬に走る楔のような傷痕は、化粧でも隠せない。戦場で付いたものであれば名誉の負傷とでもうそぶけようが、それはあの出来事が、生涯忘れえぬものとして身体に刻み込まれた証しでしかない。  服装も裾の長い女ものばかり。こんなものは動きにくいだけなのだが、それでも今の見るに堪えない身体を覆い隠すことはできる。  彼女の眼の端には、対面側の席に座った世話役のトレスが映っていた。クリシアの思いをすべてわかっているといった顔のまま、車中ではずっと黙っている。  クリシアは彼女が好きだった。初めて会ってから一年ほどが経つが、トレスはそれまでにも貴族の息女に仕えており、頭が良く気が利き、何をやらせても手際が良い。いつも自分の先手先手へと動き、正しいと思われる道へと導いてくれる。たまにおせっかいが過ぎるきらいもあるが、世話役としては申し分ない。  しかし同時に、トレスがいつもいることで、クリシアはもう一人で自由には生きていけないことを常に思い知らされている。  彼女にとっては二年ぶりの旅だ。  だがこの数日間は狭い馬車に押し込められ、道中の旅籠では人目を盗むようにして身体を休めた。  この先も、ずっとこんな暮らしが続くのだろうか。もう自らが馬を駆り、野山を駆けることは永久にできないのだろうか。もっとも、この身体ではもう甲冑の重さに耐えられないな、と枯れ枝のような指でこけた頬をなぞりながらクリシアは思っていた。  やがて馬車は、外城壁の門へとやってきた。馬車が止まり、近づいてきた城門の衛兵たちと護衛の騎士が言葉を交わす。話が終わると、衛兵たちが興味深げな顔で馬車の中を見透かすように首を伸ばした。手綱を握っていた御者のオルテンが鋭い声で叱責し、馬に鞭をくれると馬車がまた動き出す。  城門をくぐりながら、あの衛兵たちもこの馬車をずっと目で追っているのだろうな、とクリシアはぼんやり考えていた。  大戦終結の間際、敵地で行方知れずとなり、三月後に奇跡の生還を果たした、軍総帥バレルトの娘クリシアの噂は、あっという間に広がった。  だが、彼女がどこでどのように過ごしていたのか、詳細を知る者はいない。  クリシアは生還以来姿を見せず、そのため巷では様々な憶測を生んだ。  瀕死の重傷で二目とみられない姿になった。気が狂れて幽閉されている。実は当人はすでに死に、バレルトが美談を作り出すために替え玉を用いたのではないか。  面白おかしく吹聴する輩は後を絶たず、一時は子どもまでもが囃し立てる戯れ唄にまでなった。  だがそれも、戦乱からの復興に余念がない世間にとっては、あの三人のフェルゾムの行方と同様、次第に忘れ去られるものでしかない。  クリシア自身もそれを望み、近頃では世捨て人同然で噂も立たなくなったものの、それでも彼女の名前は、出れば人々の耳目を集めるものに違いはない。  今までの二年間、クリシアはバレルトが王家の代官として治める旧ヴェナード領アンブロウ郡の城にいた。傷ついた身体を癒すためだったが、さらに転地療養をすることとなり、オラードの中でも気候が穏やかで過ごしやすい、ここモルトナ郡の山間部に移住することとなった。  モルトナはバレルト家の領地であり、今は父の弟のベルーノ・バレルトが領主として治めている。  バレルト家はもともとオラード王家が召し抱えた一軍人の家系だったが、二代前が戦功の褒賞として勲を賜り、オラードの最南端に狭いながらも領地を得た。当代に至り一旦はオリガロが家を継いだが、大戦が勃発するとともに実質的な家督を全て弟のベルーノに譲り、自身は王都にある軍の公邸を本拠とした。軍人として戦に己の生きる場を見出した兄に代わり、今ではベルーノが堅実にこの地を治めている。  クリシアが生まれたのはすでにバレルトが王都に移ってからのため、彼女がモルトナを訪れるのは初めてだ。  ベルーノは兄のオリガロに比べれば凡庸な人物だが、実直で温厚な性格のため、クリシアも子どもの頃からこの叔父には好感を持っている。  彼女の療養場所についてすべてを用意してくれているこの叔父への挨拶にと、居城であるラグネーゼを訪れたのだった。
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