第二十九話 穿たれた孔

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第二十九話 穿たれた孔

 旧ヴェナード領のアンブロウでは、バレルトが居城の執務室で届いた書簡に目を通している。  だが、目は書に落ちているものの仕事はなかなかはかどらない。しばらく経つと頭の中にはクリシアの姿が浮かぶ。  彼女を転地させたことが最善の策だとわかっていながら、やはり大切な体の一部をそっくり失った気がしてならない。とは言え、その発端はすでに数年前から始まっていたことでもある。  やはり女だてらに軍に所属させたことが間違いだったか。  あの時、将来娘に何があっても後悔せずと覚悟したつもりが、そんな容易いことではないと改めて思い知らされた。  バレルトの心には、あの日から抜くことのできない楔がずっと突き刺さっている。  二年前、終戦直前に行方知れずとなったクリシアは、それから三月あまり後、とある山間の村にぼろぼろの姿で現れ、驚く村人に名を告げるとそのまま気を失った。極度の疲労と体中の傷に加え、精神的にもかなりの痛手をこうむっていたが、幸い村人たちの介抱もあり、二日後に意識を取り戻す。  その頃にはオラードからの一隊も医師と共に到着しており、体力の回復を待って、ヴェナードに駐屯したままでいたバレルトの許へと戻り、父と娘は一年と数か月ぶりの再会を果たした。  彼女の生存を諦めていたバレルトにとって、内心の喜びは計り知れないものだった。だが同時に、クリシアの身に何が起こったのかは、とても大きな問題でもある。  痩せ衰え寝たきりのクリシアは口もきけなかったが、考えられることはかなり明白だ。駆けつけた兄二人が、自ら状況を探るため彼女の見つかった村へと出立し、そしてクリシアの身体についても口の堅い医師たちを選び綿密に調べさせた。  そしてその結果は、残念ながらバレルトが予想していた通りだった。  ペグワイの駐屯地から出撃した彼女は、おそらく敵兵の計略にはまり、そのまま囚われていたと思われる。  状況から、ともに出撃した部下の一団は全滅。クリシアだけが生き残ったのは、オラードの将軍バレルトの娘と敵にも知られ人質としての価値があったこと、そして何より、女だったからだ。  首や手足に残った傷から、彼女が枷にでもつながれたまま長く監禁されていたことは間違いない。そして医師らが身体の隅々まで調べた結果、毎日のように凌辱され続けていたことも。  人質とはいえ価値の高い軍人は丁重に扱われるものだが、彼女を襲った一団は野卑な雑兵の群れか、本隊から外れた野伏せりまがいの連中だったのだろう。命までは奪われなかったものの、彼らの欲望の捌け口として、奴隷以下の扱いを受けていたことには疑いの余地がない。  最後に、医師は決定的な言葉を口にした。  クリシアは児を宿している。だが今の状態では、無事に産むことは決してできないと。  バレルトは、今のクリシアを見たときからすでにおおよその見当をつけ、覚悟もしていた。  軍人、兵士である限り、さまざまな意味で傷つくことは避けようもない。  ただ、娘が不憫でならなかった。  戦場を駆け巡り武勲をたてたとはいえ、所詮男ではない者がいつまでもそんな生活はできない。女が一軍人として生涯生き抜いていけるはずがない。誰かの庇護を受ける、つまりいつかは相応の家に嫁ぎ、子を産み、跡継ぎを育て、家を紡ぐ役目をもつ母親となっていく。それは、彼女自身もやがて受け入れるべき運命だった。  だが、その道ももうクリシアにはない。  今の彼女を、たとえ大将軍の娘とはいえ受け入れる家なぞあるはずもない。これでクリシアは、一介の女としての生き方すらできなくなった。  ヴェナードの割譲以降、躍進するバレルトを嫉む政敵ももちろん増えた。彼らにしてみれば、バレルトを貶める材料なら何でも見境なく手に入れたい心境だろう。愛娘が敵兵に捕らわれ、凌辱の挙句、どこの誰とも分からぬ児を孕まされたなど恰好の責め道具であり、彼にとって耳障りな醜聞であることに間違いはない。  何より、これが公になればクリシアは生きていられまい。真実が口外されることだけは、何としても防がねばならない。  医師は一日でも早い堕胎を薦めた。クリシア自身の状態から見て、胎児が順調に育つことはあり得ない。そうなれば彼女の身にも危険が及ぶ。今の体力も気になるが、回復を待っていれば手遅れともなり兼ねない。  バレルトは同意し、ある日薬で眠らされた彼女は、何も知らぬまま堕胎させられた。
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