第三十話 遠い思い

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第三十話 遠い思い

 それからひと月ほどが経ち、クリシアはやっと歩けるまでに回復した。  だが心の傷は癒えず、身体中に集った虱退治のため丸坊主にされた姿で、呆けたようにただ窓から遠くばかりを眺めていた。  食事もろくに摂れず、夜は眠ることを恐れ、疲れ果てて眠ってはうなされる毎日が続く。そしてそれは、妊娠の結末をバレルト自身がやむなく知らせた後、一層ひどくなった。  万一を考え、バレルトは彼女の身の周りから刃物の類を一切遠ざけ、昼夜を問わず侍女たちに交代で見張らせた。事実、彼女が突如として激昂し自傷に及んだことも一度や二度ではない。  心と身体の回復に効きそうなものは、薬、食物はもとより、部屋を飾る珍しい花々や宝飾品、気晴らしの書物、教院の護符や、果ては得体の知れないまじないの類まで、どんなに高価な品でもバレルトは取り寄せた。  オラードの国教を伝える大教院から招いた尼僧は、彼女を外に出し、陽の光の下で自然に触れさせることで、長い時はかかっても次第に癒されていくだろうと告げた。  バレルトは、彼女の気が休まることを祈り、ありとあらゆる手をつくし、その甲斐あってか半年ほどが経った頃、クリシアはやっと人並みに出歩き、言葉の受け答えもし、夜は眠れるようになった。だが相変わらず食だけが回復せず、気に入ったわずかな果物と粥程度しか受け付けない。  痩せ細り、頬はこけ、目の下のくまは隠せず、騎兵隊に所属していたころの面影は微塵もなかった。毎日自室でぼんやりと過ごし、人払いをした城の中庭を目的もなく歩くだけのクリシアに、バレルトはある時ついに決心をした。  半月ほど前、彼はクリシアの部屋を訪ねると、彼女に住まいを変えることを打ち出した。  本心ではいつまでも手元に置いておきたかったが、ここは城であり、クリシアには良くも悪くも騎兵だった頃を思い出させるもので溢れている。  そして入念に策を弄したにも関わらず、やはり彼女の一件は城外にも広まっていた。  敵兵に捕まっていたという噂は、今では町の子供ですら面白おかしくはやし立てている。ここにいれば、遠からずクリシア自身の耳にも入るだろう。一刻も早く新たな手を打たねばならない。  もっと落ち着いて暮らせる新たな土地で、環境を変えて療養に専念させれば、心の傷も癒えるかもしれない。  すべてをし尽くしたバレルトとクリシアには、後は時が味方をしてくれることを願うしかなかった。  父の言葉の奥にある自分への愛情を感じた彼女は、素直にそれを受け入れ、しばし親許から立ち去ることに同意した。いずれにせよ、ここには彼女の望むものは何もない。まして自分の存在は、大領地の代官という重責を担う父に対して、深い傷と負い目を与えている。  自分は父の許から消えた方がよいだろう。それが結論だった。  クリシアは、トレスとオルテンと共に、モルトナに移り住むこととなった。彼ら自身がどこまでクリシアの身の上を明かされているのかは分からなかったが、頭の良いトレスや、大きな身体に似合わず思慮深いオルテンであれば、断片的な情報からでも、クリシアの身に何が起こったかは容易に汲み取っているはずだ。  彼らが自分に同情を寄せていることはクリシアも感じていたが、かといって彼女の好き放題にさせるほど二人とも甘くはなかった。特に、躾にも厳しいトレスは、今や大領主となったバレルトの息女として、どこに出ても恥ずかしくないよう、改めて礼儀作法、所作、立居振る舞い、そして教養を身につけさせようとした。  それが彼女なりの気遣いであり、少しでも早く辛い過去を忘れさせたいという愛情でもあることはクリシアにも分かったが、初めのうちこそ退屈しのぎに従っていたものの、あらかたの理解ができるとすぐに興味を失った。  もともと裾の長い衣装に身を包み、一日中館にいることに堪えられる性格ではない。ただ、痩せこけた身体の線を隠すため、女性用の服だけはいやいやながらも着続けている。  彼女が外出するときには、常にオルテンが一緒にいる。馬の扱いに長け、口数こそ少ないが、いつも彼女の傍らに控え、用心深く周囲に目を配ってくれる。  クリシアの生活は、彼らの庇護のもとに成り立っている。  それは彼女自身の平穏な日々を守ると同時に、彼女から「自由」の二文字が失われたことの象徴でもあった。  バレルトの耳には、クリシアが無事モルトナに到着した報が入っている。一応の安堵はしたものの、これから彼女がどう暮らしていくのか、自分の眼のとどかぬ場所に移り、何かが起きてもすぐに手を打つことができないもどかしさと不安との戦いは、これから始まる。  トレスとオルテンがいれば間違いはないと分かりつつ、それでも娘への想いと一抹の後悔とが入り乱れ、彼の心は常に波立っている。  クリシアが、元通りとまでは言わずとも、せめて落ち着いて日々を暮らせるようになるには、どのくらいの月日が必要なのか。  バレルトは、傍らの窓から遠い空を眺めたまま、しばし考えていた。
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