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第三十一話 黒の夢
青黒く濁った暗い空に、小さくぼやけた月が上っている。
クリシアは、座り込んで膝を抱え鈍く光る月を見上げていた。
全裸だった。
周りには何一つ見えないが、自分の白い身体だけは仄かに見える。
なぜ裸なのか分からないが、それが当たり前のようにも思える。体の下にあるはずの地面も感触があやふやで、どこかを漂っているようにも感じる。頭もずっと揺れているようで気分が悪かった。
手を広げても周囲には何もない。
突如、背後に悪寒を感じた。
振り向くと、後ろからたくさんの腕が、鞭のように伸び追ってくる。思わず逃げようとしたが、たちまち何本もの腕に抑え込まれた。
髪を鷲づかみにされ、頬をぶたれる。何度も何度も、繰り返し身体中を殴られる。だが腕の主は一人として見えない。
痛みに耐えきれず、やめてと懇願したが、何の意味もなかった。抗う気力もなくなり、ただ嵐が過ぎ去るのを待つようにぐっと眼を閉じ暴力に耐える。
やがて腕の動きがとまり、彼女は目を開けた。
腕が異様な姿へと変わる。五本の指はみるみる太く長くなり、関節も消え、ずっと昔に海辺の町で見た得体のしれない生き物の触手のように、身体中に巻き付いてくる。
肌という肌に触手が擦りつき這いまわるその感触に、全身が総毛だつ。両腕に絡みついた触手が腕を頭の上に引き据える。
身動きの取れなくなったクリシアの乳房に、生臭くねっとりとした触手が巻きつき、締め上げ、いくつもの先端が頂きをまさぐる。固く締めていた両膝が割られ、両脚が高々と広げられた。股間に伸びた何本ものそれが、ぬめぬめと潜り込んでくる。
彼女は歯を食いしばり、拒むように首を左右に振った。尻を這っていた触手が窪みを見つけると弄び、やがて無理やり侵入してくる。痛みにのけぞり声を挙げようとした口の中にも彼らは押し入ってくる。
それぞれの穴の中で、触手はうごめき出し入れをくり返す。
身体の奥底までをこじ開けていくようなその動きに、嫌悪と恐怖とでいっぱいになりながら、だがやがてそれは、女としての別の感覚にじわじわと変わっていった。
乳頭は大きく固くなり、触れられるたびに声が漏れそうになるのを必死に耐えた。股間がうずき始め、我知らず腰が動く。
恥ずかしさと罪悪感に涙が溢れる。すがるように伸ばした手に、冷たく固い何かが触れた。短剣の柄だ。握りしめ、手首に巻き付く触手に無理やり突き立てる。生温かい液体がほとばしり触手が離れた。
体中に巻き付く触手に次々と短剣を振るう。
股間にまとわりつくそれに剣を突き立てると、それは歪んだ人の顔に変わった。血みどろの男の顔がぽっかりと暗い口を空け、獣のような叫び声を挙げる。耳をつんざくようなその声が、なぜか彼女には聞こえない。
そこで目が覚めた。
クリシアの眼に寝台の天蓋が映る。部屋はほのかに明るく、安堵して一息つく。
あの夢だった。久しぶりだな、と彼女は思った。
初めのころは、見るたびに泣いた。いつどこにいても夢のことが頭から離れず、夜は眠れなかった。ずっと起き続け、いつの間にか意識を失うように眠るとまた同じ夢を見た。その繰り返しだった。
だが今ではもう涙も出ない。
心の傷を時が癒すとはこんなものか、と冷ややかに思う。それは癒すなどという穏やかなものではない。心のどこかが少しずつ崩れ失われていくことで、傷を傷とも思わなくなる。知らぬ間に魂が削り取られ消えていく。そんな感触だ。
クリシアは寝台の上に身を起こすと膝を立て、室内を見回した。滞在しているベルーノの居城の一室だ。全身がじっとりと汗ばみ、額にへばりつく前髪が鬱陶しい。手で掻き上げながら、自分にもこんな並みの女のような仕草をすることがあるのだな、と気づき彼女は自嘲気味に笑った。
もう夜明けだ。
窓を覆った帳が、板戸の隙間から洩れる日差しで弱々しく白んでいる。今日は城下に出る日だ。すでに二度ほど見物に出かけたが、殊更何を見たいというわけでもない。だが叔父への気遣いはともかく、彼女も自分なりに変わらなければという気持ちは根強くある。
寝台から降り立つと素足のまま窓辺まで歩き、帳を払い板戸を細めに開けて外を見る。城の裏手の窓からは内郭の限られた範囲しか望めない。だがそこでは、朝もやの中、城の使用人たちがすでにめいめいの仕事に取り掛かっている。
アンブロウにいたころと同様、ここでも自分には役割がないな、と思った。
誰かのために何かをする、それはとても素晴らしいことだと今さらながらに痛感する。そこに貧富や貴賤というものは本来介在しない。高位の官僚から汚物の汲み取り人まで、どんな仕事にもそれをする必要があり、それを受け持つ者の価値がある。
だが、彼女にだけはそれがない。
自身で何かできることを見つけたいとも思うが、今の彼女の状態と、何よりオリガロ・バレルトの娘であるというその事実が、彼女の行動を締め付け狭めていた。
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