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第三十二話 血と穢れの記憶
どのくらい外を見ていたのか、表の間に人の来た気配がした。規則正しい足音とともに入ってきたトレスが、衝立の陰から現れ声をかける。
「おはようございます。お目覚めでしたか」
「おはよう。トレス」
「お風呂の用意ができております」
「わかった。すぐに行く」
トレスが下がると、クリシアは後ろ髪を引かれながらも窓から離れた。
部屋履きを履くと表の間を横切り、叔父が彼女のために特別に誂えてくれた風呂の間へと入る。高窓から朝日の差し込む中、大きな風呂盥から湯気が立っていた。人はおらずしんと静まりかえっている。
本来は侍女が入浴を手伝うが、クリシアは自分の身体を決して人目にさらさない。裸になると、風呂盥に身を浸した。
湯を掬いながら身体に掛ける。
頸すじをぐるりと囲む赤い痣は、未だに消えぬ首枷の痕だ。痩せ細った腕と脚。薄くなった胸。あばらの浮いた胴。体中に付いた傷や火傷。
明け方に見たあの夢が思い出される。
昔の自分はこんな姿ではなかった。引き締まり筋肉質になってはいたが、やはり男とは違う。健康に肉付き、肌はなめらかで腰はくびれ、乳房は支給ものの甲冑が窮屈に感じられるほどに膨らんでいた。
兵士として戦うにはむしろ不利とも思えた体つきが、今は見る影もない。
しばらくお湯の暖かさを味わうと、石鹸で身体を洗う。貴族の息女たちはほとんど身体も汚れぬため香水の風呂を好むが、彼女は長く兵役についていた癖で香水よりも石鹸を好んだ。
無論、兵士だったころは風呂など月に数度しか入れない。石鹸といった貴重なものは、特別な行事の前でもないと使えない。まして一度戦場に出れば、男たちに混じり、泥と馬糞にまみれ虫にまかれ、自分の汗と血を流して何日でも戦う。
だが、それすらできなくなった今では、単調な日課をただ黙々とこなすだけだ。
こうして生きているだけでも、日々必ずしなければならないことは無数にある。
ものを食し、用を足し、眠る。だがそれら最低限のことにさえ、あの時の記憶はねっとりとまとわりつき、何をするにも囚われていた日々が頭に浮かぶ。
あの時憑りついた死と絶望の恐怖、そして自我を失うほどの恥辱は、絶対的で一切拒絶できない服従を彼女の心に刻みつけ、決して打ち勝てないものとして、今なお彼女を支配し君臨している。
胸を拭っていると、またあの記憶が蘇ってきた。暗い地下牢に、自分を捕えた男達の顔が浮かぶ。
頭目の男はひと際大柄で、常に無言だった。一筋縄ではいかない匂いに身を包み、自分を執拗にいたぶり犯しつくした男。その後ろに野卑な男たちの好色な顔が並ぶ。
どれも捕えた女になぞ一片の情けもくれないと一目で分かる。
彼らの武骨な手で、毎日のようにまさぐられ鷲づかみにされる胸、ぎりぎりと摘まみあげられる乳頭の痛み。伸び放題の髪や髭に虱をたからせ、臭い息を吐き、我先にとむしゃぶりついて来る男ども。
捕えられ虜囚となった彼女は、どこかも分からぬ暗い地下牢で、獣の様に壁につながれていた。
小さな窓からわずかに見える陽の光に、今が昼か夜なのかだけが分かる。牢に籠った饐えた臭いは、何十年という間そこに溜まった血と汚物と腐肉の群れを想像させた。
男たちに切り裂かれた衣服を拾い集め、せめてもの恥じらいにと胸と腰とを覆っただけの恰好。
捕えられた直後から散々に嬲られ続け、彼女はすでに何をする気力もわかず、ただそこにいるだけの毎日だった。
遠く男たちの跫や声が聞こえるだけで身体は緊張した。
やがて入り口に現れる人影。
牢にこびりついた悪臭に彼らの鼻持ちならない体臭が加わる。だがそれも、わずか数日で慣れてしまった。いやすでに、泥と血と汚物、そして男たちの体液と汗にまみれ、彼女自身が彼らと変わらぬ臭いを放つ肉の塊と成り果てていた。
こんな身体を抱きたいとなぞ思う者がいるのか。だがなんの遠慮もなく、男どもは力任せに肉欲をぶつけてくる。拒んでも結果は同じだ。
彼女はもう一切手向かわず、されるがままに、また命じられればどんなことでもした。上手くできなければ容赦なく殴られた。暴力と痛みもまた、彼女を支配する恐怖に拍車をかけた。
昼夜に関わらず、彼女の心も身体も無視して男たちはやってくる。眠っていても気配がすれば彼女はすぐに飛び起きた。なまじ寝姿なぞ見せれば、またどんな悪意に満ちた行為をされるかも分からない。
虜囚となって二、三日と思われるころ、彼女はついに強い便意を催した。ずっと我慢をしてきたがそれも限界だった。
どれほどの不遇や不幸に陥っても、生理的な身体の欲求に抗うことはできない。
地下牢には排便用の桶も排泄物を埋める地面もなく、どうするか思案しているところに、運悪くまたも男どもが現れた。
そして、目ざとく察した彼らはその苦悩すら辱めの種にした。
意地悪い笑みを浮かべながら乱暴に鎖を手繰ると、拒む彼女を無理やり後ろ向きに立たせ両腕も壁に括り付ける。かがむことも手で隠すこともできず、引き締まった白い臀部を晒して身悶える姿に、男たちは嬌声を挙げた。
無駄と分かりつつ涙声で懇願する。
だが縛めは解かれぬまま、耐えに耐えた末に彼女は力尽き、彼らの目の前で立ったまま糞便を垂れ流した。
男たちにとって、彼女は欲望のはけ口であると同時に、残忍な娯楽の対象でもあった。
当代一の大将軍として名を馳せた男の娘、それも騎兵の小隊長として敵にも知られる女丈夫が苦しみ悶える姿は恰好の見物だ。それは彼女を征服した証しであり、日を重ねれば重ねるほど、彼女は自分が深く冷たい地の底へと、文字通り堕落していくことを感じていた。
彼らによって心に刻み込まれた数々の傷。
彼女は助け出された当初、食事はおろか、用を足すことすらまともにできなかった。常の人の世に戻り、なまじ心を取り戻したが故に、虜囚として受けていたすべての行為が彼女を飲み込み苦しめ始めた。
あの時の男たちの笑い声を思い出すと、未だに大声で喚き、泣き叫び、わが身を切り刻んで死にたい衝動に駆られる。
思いを振り払うように顔を乱暴に洗う。その左手に頬を走る傷跡の感触が伝わる。
自分が本当に洗い清めたいのは、身体の表面ではなく内側だ。
毎日のように体中に注ぎ込まれた男たちの体液は今も身体の芯に留まり、自分の中から発する獣のような匂いが、どこに行くにも付きまとう。
もし今この胸や腹を切り裂き湯に浸したら、あの時のことをすべて洗い流し、消し去ることができるのだろうか。
下腹部に手を滑らせる。湯の中で、髪と同じ色の恥毛が揺らいでいる。囚われてからだいぶ経った頃、月のものが来ぬことに気づいたとき、彼女は新たな不安と恐怖に打ち震えた。いつかはと諦めていたこととはいえ、この先を考えるとたまらなく怖かった。
卑しく汚らしく、自分が最も蔑む類の男たちによって無理やり孕まされた子。だが自分の中に新しく宿った命に代わりはない。彼らに知られたらどうなるか。いや、私が身籠ったことになど気を払う連中ではない。これまで同様好き放題にされれば、この身体の中の命はどうなるか。何より孕んだ奴隷女なぞ生かしておく輩だろうか。
幸い、それと知られぬままに助け出されたものの、彼女の頭にはおぼろげながらに産むべきか否かの選択がよぎった。
だがそれも、今となっては決して消えない傷跡でしかない。
後に容体が落ち着き、父からすべてが終わったことを知らされたとき、彼女は同時に、もう二度と子を産めない身体になったことを告げられた。衰弱しきった彼女の身体もまた、堕胎の処置には耐えられなかった。
望まぬとはいえ自分の身体に生まれた一つきりの命は、この世に出ることを許されず、そのまま消えて無くなった。
温かく優雅な香りの湯に包まれていても、彼女の心が癒えることは永遠にない。
クリシアは湯の中で両膝を抱え、またも涙が溢れ出すのをただじっとこらえていた。
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