第三十三話 味のない糧

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第三十三話 味のない糧

 風呂から出たクリシアが、身体を拭き、新しい下着に着替える。  塩入りの藻粉で歯を磨き、香料を垂らした湯で口をすすぐ。そして、薄紅色の顔料が入った白粉を左頬に叩く。全て終えると、次の間で待っているトレスを呼んだ。  トレスがクリシアの着替えと髪の手入れをする。彼女の髪はまだ短いので束ねられない。櫛で梳くが、あまりきれいにまとまるものでもなかった。  支度をすませると、朝の食事が始まる。  クリシアは居室に用意された食卓についた。ほどなくして、木皿に盛られた薄い豆粥と少量の果実が運ばれてくる。  彼女はこれしか食べられない。  杓子で粥をすくうと口に入れ、ゆっくりと飲み込む。食べることはできるが、料理を美味だとも、食事を楽しいとも思えなかった。それどころか、食事というものはクリシアにとって最大の苦痛でしかなかった。落ち着いて口に入れ、飲み込むことができるようになるまでに大分とかかった。助けられた当初は何も食べられず、飲み込んでも吐いた。  食べるということは生きるということ。生きるということは自分にまだ生きる価値があるということ。だが自分にはすでに生きる資格も希望もないという現実。食べてはいけないにもかかわらず、食べなければならないという矛盾。  空腹を覚えると常に不安となり、時には暴れることもあった。今でもことさら食事に思い入れを持つと、ぶり返しそうで恐い。  だから、彼女の食事には味がない。  味覚を刺激するものは、塩も甘味も香辛料もほとんど使わせない。  果実も味の強いものは避けている。それを彼女は、何も考えずただ口に入れ飲み下す。日に三度、そうしてやっと一日動けるだけの糧を得る。  それが彼女の食事だった。  食後に一息つくと、外に出る支度をする。最後に外套をはおり頭巾で頭をすっぽりと覆った。城館の中でも他人に顔を見せたくはない。彼女が誰かを知らずとも、やつれて顔に傷を負った女は人目を引く。詮索されるのはまっぴらだった。  トレスと二人、人目を忍ぶようにひんやりとした回廊まで降りる。オルテンが、すでに馬車を仕立てて待っていた。  手を借りて乗り込むと、馬車がゆっくりと動き出す。  城下の街には様々な店が開き、広場では遠く異国からの香辛料や珍しい食材、織物などの屋台を広げた行商人が、呼び込みの声を張りあげている。  オルテンが注意深く人の合い間を縫うように馬車を進め、やがて彼らは市街を囲む外城壁の東門を潜り抜けると、ベルーノ直轄の荘園へと向かっていった。  季節は春から初夏へと向かい、暖かな日差しが降りそそいでいる。  街道から逸れ、草花の生い茂る田舎道を進むと、少しずつ緑の大地の起伏が大きくなっていく。遠く灰色にかすむ山脈が連なり、そのふもとには新緑を湛えた広葉樹の森が広がっている。やがて広大な果樹園が見えてきた。  透きとおった空には、ちぎれちぎれの雲が穏やかな風にゆっくりと流され、手前には葡萄畑の畝が何列にも延びている。畑では、小作人たちがところどころで作物の手入れをしていた。季節柄、害虫の駆除でもしているのだろう。  確かに、このモルトナは疲れた心を癒すにはうってつけの場所と思える。  のどかな風景の邪魔にならない程度に、トレスが讃嘆の言葉を口にした。だがその風景のどれをとっても、やはりとりたててクリシアの関心を惹くものはない。  荘園をゆっくりと一巡りしたものの、終にはもう見るものもなくなり、そろそろ城へと戻る気配が感じられてきた。  トレスもオルテンも、何かを期待していたわけではないが、相変わらず表情の晴れないクリシアには正直接しあぐねている。  そしてクリシア自身、その気持ちをひしひしと感じている。  自分が周囲に迷惑をかけていることはわかる。ことに長い間仕えてくれている二人は彼女の心の支えでもあり、すまない気持ちでいっぱいだったが、その言葉すら口にすることはなかなかできない。  謝罪も感謝も心で思えばこそ。しかし口にすれば、今自分に残っている本のわずかな自尊心までが塵の如くなくなってしまいそうで怖かった。  そうなったとき、果たして自分は自分のままでいられるのだろうか。  とにかくなるべく従順に、穏やかに、そしてひっそりと、誰の目にも留まらないように生きていけたら。  彼女の頭に浮かぶものは、ただそればかりの日々だった。
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