第三十六話 セルデニー

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第三十六話 セルデニー

 荷車が見えなくなると、クリシアは足早に馬車へと戻った。心配して途中まで来ていたトレスを急き立てるように馬車に乗り込み、素早くオルテンに指示する。 「川下に木橋がある。そこからつながる左手の道に向かって。早く!」  二人とも日頃と違う彼女の態度に困惑したが、彼女が何かに興味を持ったことはすぐに理解した。  オルテンが馬車を走らせる。小さな辻を右手に曲がり、川下へと向かった。行く手の丘のふもとで脇からの杣道が合流している。クリシアが馬車の窓から頭を突きだし、先を伺っていた。トレスが真ん丸な目をしている。 「いた!」  クリシアが小さく叫び、オルテンに速度を落とすように叫ぶ。トレスが逆の窓から顔を出し、小さな荷車を認めた。あれがいったいどうしたのだろう。  荷車は、道沿いの野良小屋を過ぎると右手へと曲がった。クリシアが馬車を止めさせ、自分で扉を開けるとトレスを振り返る。 「私一人で行く。ついて来ないで」  言い残すと、足早に荷車を追った。  トレスも馬車を降り、御者台のオルテンと顔を見合わせた。クリシアが戸外で馬車を降り、誰かに会いに行くなぞ信じられない。だが、やはり一人にはできない。トレスは慌てて彼女の後を追っていった。  クリシアが角を曲がると、荷車の後ろ姿が見えた。荷台の陰で男の姿は見えない。 まだこちらには気づいていないな。いや、すでに気づきながら無視しているのか。  クリシアは構わずに近寄って行った。だが数歩の距離にまで近づいたとき、後ろからお嬢様、と鋭く呼ぶトレスの声がした。荷車がわずかに横にぶれ、速度が落ちる。  彼女はやれやれと嘆息しながら、そのまま荷車の脇を通り、男の後ろ姿を見つけて声をかけた。 「おい、お前」  だが男は、耳に入らないとでもいうように、相変わらず荷車を引いていく。自分を無視して進もうとする荷車に虚を突かれ、思わず叫ぶ。 「私の名は、クリシア・アルフ・バレルトだ」  荷車が止まる。  ここは我が家系の領地。癪には触るが、やはりバレルトの名は効き目があるな。そう思いながら男に近づく。  荷車は止まったが、男は頭巾をかぶったまま、振り返ろうともしない。 「お前、名前はなんだ? どこに住んでいる?」  そう問いかける彼女に、男は荷車の先棒から手を放すと、やっと半身を振り返らせた。頭巾を落とす。貴賓の者に対する最低限の礼儀は知っているな、とクリシアは感じた。  灰色がかった土色の髪、面やつれした顔にうっすらと生える無精ひげ。身なりには無頓着だが意外と端正な顔立ちで、見ようによってはまだどことなく幼さも残っている、そんな男だった。ただ、年の割にこの世の辛酸をなめつくしたような暗い目つきが気にかかる。  トレスが後ろから走り寄る。 「お嬢様、むやみに平民にお声なぞかけてはいけません」  男が反応した様子を見て用心深く諭す。しかも、いつものクリシアの態度ではない。自分から人前に顔を晒し、話しかけてさえいる。何があったのか、この男が誰なのか、トレスには皆目わからない。 「よいではないか」  クリシアはちらと眼を流しただけで、意に介さず続けた。 「お前の名前は?」  男は黙っていた。彼女と、その後ろで抜け目なく男との間合いを計っているトレスとを交互に見ている。応えていいのか。そう言いたげな男の眼に、トレスが眉根にしわを寄せ小さく首を横に振った。さっさと行っておしまい。顔がそう答えている。  ふいにクリシアの顔が男に近づいた。トレスが驚き思わず制しようとしたが、彼女自身おいそれと手を出せるものでもない。 「しゃべれるのだろう? 名前はなんだ」  しつこく聞く。  自分だけが不幸を背負っているかのような、他人を見下す態度が気に入らない。  私に見られたことはもう悟っているだろう。しくじったと思っているな。少し意地の悪い心持ちになった。  男が迷惑そうに顔を引く。  その時、クリシアは自分に注がれる男の目つきの中の微かな違和感にやっと気づいた。もちろん自分の名が世に知られていることは、彼女自身心得ている。だが、この男の沈黙にはもっと深いものがあるような気がした。改めて男の容姿を見直したが、自分の記憶の中には残っていない顔だ。  しばらく彼女を見ていた男の口が少しだけ開く。そこでまた考えこみ、やがて視線を落とすとぽつりと言った。 「セルデニー」  声自体は思いのほか若々しく、年も自分とさほど変わらないようだ。トレスも意外な面持ちをしている。ただし抑揚はなく、明らかに人と交わることを避けている者の言葉だった。 「お前、戦場に出たことがあるのか?」  男はまた黙り込んだ。背は彼女より高いくせに、上目遣いでじっとクリシアを見ている。だが、男のその眼が、自分の姿と一緒に何かずっと遠くのものまでを見ているような気がして、クリシアは不意にうそ寒い心持ちになった。左頬の傷を見られていることが急に気恥ずかしくなる。  やや顔をそらしたが、先ほどの男の技前を思い起こし、改めて真顔になる。 「お前の動きは平民のものではない。剣の覚えがあるのだろう? しかも、年の割にかなり年季が入っているな」  さして年も違わない相手に尊大な口を利き、改めて好奇心を秘めた目で男を見た。 「どこかの軍に所属していたのか? 元は名の通った騎士か」  男の身体からふっと緊張感が消えた。このやり取りに興味を失ったらしい。荷車に手をかけながら答える。 「ルクルドの軍にいて、怪我で退役しました」  そう言い残すと先棒を持ちあげ、二人を無視してそのまま引き上げていく。クリシアもそれ以上言葉はかけなかった。  馬車で城に帰って来た彼女は、いつも通りなるべく誰にも合わないように自分の居室へと戻った。帰る道々トレスには散々お説教をされたが、まるで上の空で、今日の出来事にまだ興奮している。  あの男の印象が強烈に残っていた。あの男の眼。あれは、決して誰にも言えない傷を負った者の眼だ。  彼女は、自分と同じ人間を見た気がしていた。
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