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第三十七話 役目の無い者
三日後、クリシアたちはベルーノが用意してくれた住居へと移った。
ラグネーゼの城下から山を一つ越えたなだらかな丘上にあり、もとは街道を見張る砦として使われていた小さな城塞だが、今は役目もなく、叔父が狩りに出る際の仮り宿として使っていたものの一つだ。
城館の中は手入れも行き届いており、アンブロウから先に送られた荷物の他にも、クリシアのために新しい調度や女性好みの装飾品や小物がさまざまに用意されていた。
近くには小さな村が一つあるだけで、ふだんは人の往来もほとんどなく、裏手の窓からは目の前に広がる平原と背後に連なる山々が見渡せる。
のどかで落ち着く情景だが、来たばかりの彼女がすぐに馴染めたわけでもない。
クリシアとともに住むのは、トレスとオルテンに、侍女が一人、食事番の夫婦、門衛、下男と、ごくわずかな人数だった。戦乱は終わり治安もよくなっている。なおかつこの一帯は領主である叔父の直轄地として地境は柵で囲われ、許された者しか入ることができない。館にまで警護の兵は必要なく、身の回りのことをする最小限の者のみで事足りる。
叔父自らが手配した人物は誰もが温厚で、領主の姪として過分に畏れることもせず純粋に尽くしてくれることは、彼女にとってもありがたかった。
だが日頃の世話をする以上、みな彼女がどんな状態かは一通り知らされているのだろう。
所詮、心の底から分かり合え、何かをともに分かち合える人間なぞ、もうどこにもいないことは分かっている。
私はこれからここで何をするのだろう。誰のために、どうなればよいのだろう。
もうそれを考えることにも疲れてしまった。
世界のすべてが、色も音も匂いも、感触さえもなくなった無意味なものでしかない。そして、あのバレルトの娘として、私はここで生きることだけをし続けなければならない。
朝に目覚め、いつもと変わらず風呂と着替えを済ませた後、味の無い食事を終える。これで彼女にはもうこれと言ってすることはない。部屋に戻り、宗教か歴史、故事などの退屈な書物を読むか、城館の周りを目的もなくうろつくだけだ。
庭を歩いていると、門衛のポルコフが挨拶をしてきた。オルテンより一回りほど年上で、ここでは最年長の退役兵だが、がっしりとした体格と強面の顔に似合わず、草花の手入れが上手で庭番も兼ねている。
クリシアも声を返すが、その後に何を続けるということもない。ポルコフも分かっており、あえて長話を避け自分の役目に戻る。
庭では彼の育てた草花たちが、色とりどりに咲き始めていた。
丹精込めて世話をされ、明るい日差しに咲く花々も、自分に対する彼の心遣いとクリシアは自覚している。それでも、殊更に関心を持つ気にはなれなかった。
こんなもので自分の過去が消えることも、心の内が変わることもない。
ぶらぶらと手持無沙汰に歩きながら、彼女は数日前に会ったセルデニーという男のことを思い出していた。
あれは久しぶりに興奮する出来事だった。トレスもいた手前そのまま去らせたが、日が経つにつれあの男のことがますます気になり始めている。
あの動き。ただ者とは思えない。あれほどの腕の持ち主はざらにはいまい。
そしてあの男の眼。何か大きなものを抱え込んだ者の眼だ。
もちろん、退役した軍人であれば心の傷の一つや二つ誰でも持っている。戦となればお互いに命を懸けて殺しあうことが職務である以上、それは誰もが耐えねばならない道だ。
彼女自身、数年間の軍務の中で部下を大勢失っていた。
そして最後の出撃。
彼女は目の前で、気心の知れた仲間ともいえる兵士たちを惨殺された。それは遠い昔のようにも、つい昨日のことのようにも感じる、奇妙な記憶の渦だった。
女ながらに軍に入った手前、彼女の生活は覚悟していた以上に苦労が絶えなかった。
修行に励み、天稟にも恵まれ、並みの男以上に武術に優れようと、所詮は女の自分に周囲の眼は二通りしかない。何をやっても見下すか、隙あらば手籠めにでもしようと狙うかのどちらかだ。
騎士の身分でもない彼女は、他の兵士たちに混じって暮らしていた。さすがに駐屯地の営舎では別室をあてがわれていたものの、ひとたび戦が始まれば数か月の野営などざらにある。
屋外での着替えや水浴び、排便には殊の外気を付けた。恥じらいよりも、男たちに混じった女という異物が、隊の調和を乱すことを恐れたというのが本心だ。もちろん従軍する下働きの女たちもいるが、自分と下女とでは周囲に与える影響が自ずと異なる。
バレルトの娘である彼女には誰も最後の一線を越えなかったものの、前線に近いほど、粗野な兵士たちが彼女に好奇の目を向け、ことあるごとにちょっかいを出してきた。
それらに耐え、色目を無視し、男たちとともに戦い共同生活を送るうち、次第に周囲も彼女に一目置き、やがて一人前の兵士、戦友、そして指揮官として迎え入れられたが、それが彼女の天性の素質と並々ならぬ努力であったとしても、その根底に父バレルトの存在があることはまぎれもない事実だった。
私は、いったい何のために軍人を志したのか。
その思いは、二年前からことあるごとに去来しているが、今さらその問いに答えは出ない。ましてこの身の上となっては、もはや何の意味もない。
だが、それでも十数年間の暮らしで沁み込んだ軍人としての記憶と技能は、ことあるごとに兵士に戻りたい気持ちにさせる。そして同時に、それがもう叶わぬことを思い出させる。
女だてらに男に混ざり、騎兵隊長などと煽てられていた大将軍の娘が、虜囚となったうえ男たちの慰み者になっていたなぞ、傍から見ればいい様だろう。
彼女には、常に周囲の誰もが自分を嘲笑う声が聞こえていた。それはトレスやオルテン、そしてこの城館にいる使用人たちも例外ではない。
奴隷以下に堕ちた女を蔑む心は誰にでもある。私とて、以前は乞食や娼婦を蔑んでいたではないか。自分がその立場になったとき、それを理不尽と思うことは許されない。
クリシアの頭に、再び荷車の男の姿が思い浮かんだ。
私は名を名乗った。あの男は明らかに私の名を知っていた。それは分からぬでもない。バレルトの娘クリシアの名はオラードでは有名だ。だがあの目つきは何だ。私の顔を見た時の、あのこちらのすべてを見透かすような眼は。
クリシアは、もう一度会いたいと思った。だがセルデニーという名だけではどうにもならない。まして、あの男に興味を持ったとトレスが知ったら何というか。いや、すでに彼女は気づいているだろう。話題には出さないほうが無難だ。
彼女は、自分が新しいことに思いを巡らせていることに気づいた。そして、いつもと違う心持ちでいることに少しだけ安堵していた。
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