第三十八話 母と娘と嘘

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第三十八話 母と娘と嘘

 クリシアが城館に移り住んでからひと月ほどが経った。  その間、彼女はオルテンの馬車でしばしば近隣の村々を巡っている。トレスには気晴らしと言っているが、以前は滅多に出かけもしなかった彼女の変貌の裏に別の目的があることには、うすうす気づかれているだろう。  外に出るとはいっても、彼女には誰彼ともなく顔を合わせてものを尋ねることができない。口の堅いオルテンにすら、多くを話してはいなかった。  もとより人には会いたくないが、それでは埒が明かず何とか馬車で出かけている。身体が丈夫であれば自身で馬を駆りたいところだが、今の彼女にそれはできない。だが、当てもなく漫然と出かけるだけでは致し方ない。  どこに行けばあの男とまた出会えるか。  彼女は、馬車の窓越しに点々と見える農民たちを目で追いながら考えていた。  その日も、彼女はラグネーゼの荘園から少し離れた山あいの農村に来ていた。  あの男の様子では村で共同生活をしているとは思えない。誰か見知っている者でもいれば拾い物だ。だが、彼女はできれば人に姿を見られたくなかった。  土地や人物に詳しい古老とでも話がしたいが、そんな者に容易く出会えるはずもない。  村は二十軒ほどで、大方が小作人の集落だった。幾人かの農民が家の周りで働いている。  一軒の家では、母親と若い娘が洗濯をしていた。クリシアはぼんやりと母のことを思い出したが、記憶の中では靄がかかったようにはっきりとした顔つきが浮かばない。  彼女の母はバレルトの後妻だった。とはいえ最期まで籍は入れられなかった。  先妻に先立たれた父が、なぜ母を家に向かえなかったのかは分からない。母の死後、彼女はバレルトの娘として正式に認められたが、もし父親がオラードの大将軍でなかったら、私はどうなっていたのだろう。  平民に生まれていたら、今あそこにいるのは自分かも知れない。だが彼らには彼らの生活があり、そしてもちろん苦労も不安もあるはずだ。  頭の中に様々な思いが来ては去っていく。  遠目に母娘を見ていたクリシアは、ふと以前にその娘を見かけたように感じた。どこだろう。自分はこの地でそう多くの者には会っていない。そして気づいた。  あの橋。あの時の娘だ。  慌ててオルテンに馬車を止めさせると、扉に手をかける。わずかに躊躇する気持ちがあった。今の姿を人眼にはさらしたくない。しかも自分はあの娘を見殺しにしたも同然だ。  だが、彼女は扉を開けた。外套と頭巾で身を隠し、娘に近づいていく。  片田舎には珍しい馬車から降りてきた貴人風の女に、周囲の農民たちも手を止めて目を向け始めた。  母娘も気づいたが、真っすぐ自分たち目指して歩いてくる女に思わず身をすくめる。目の前に立った彼女に娘が怯え、母親がかばうように後ろに隠した。  クリシアが頭巾を下ろす。やつれた顔を母娘に向けると、娘に問いかけた。 「突然ですまない。お前は、荘園の近くの橋で兵士たちに出会った娘か?」  初対面の女にかけられた言葉に、母親の陰から娘が怪訝な顔をする。 「荷車の男に助けられたな?」  立て続けの言葉に、娘がおずおずと頷く。 「はい……でも、なぜご存じなんですか?」  こんどはクリシアが狼狽える番だった。言葉に詰まったが、恥を忍んで言う。 「私もあの場にいた。すべて見ていたが、何もできなかった。赦してほしい」  頭を下げる彼女に娘が慌てる。  本当にいたとしても、こんな痩せこけた貴族のお姫様に、あの場で何かができるなぞ望むべくもない。  娘の手をしっかりと握っていた母親が、とりあえず揉め事ではないと安堵したらしく、恐縮しながら後を引き取った。あの日、娘は荘園で働いている身内の手伝いに行き、昼餉を届ける途中で兵士たちに遭遇したという。 「娘から何があったのかは聞きました。無事でいて安堵しております」  その言葉に、クリシアの心が微かに疼く。  私の場合は無事ではなかった。そして自分と同じ目に遭いかけたこの娘を、助けることはできなかったがな。  その思いを振り払いながら尋ねる。 「あの荷車の男は知りあいか?」  だが娘は首を横に振った。たまたま通りかかった男で、しかも頭巾で顔もよく見えなかったと。  クリシアは落胆したが、自分は顔も名も知っている。 「髪の色は灰橡で、眼は栗色だ。背は私より少し高い。年は二十の半ばと思う。兵士あがりで、名はセルデニーといった」  だが、それを聞いた母娘は困惑したような表情で顔を見合わせた。いぶかしんだクリシアが顔を巡らすと、近寄ってきていた農民たちも彼女の視線から目を逸らし、顎やこめかみを掻いている。  やがておかしな沈黙を破り、母親が申し訳なさそうに口を開いた。 「あの、すみませんが、それは本当の名ではないと思います」 「なぜだ? なぜ、そんなことが分かる」  問い質す彼女に、娘が消え入りそうな声で言った。 「それは、川の名前です。私が襲われた……あそこがセルデニー川です。支流でしたが」
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