第三十九話 戦士の血

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第三十九話 戦士の血

 城館に戻ってきたクリシアは、いつにもない乱暴な足取りで部屋に入ると、寝台に勢いよく腰を下ろした。腹立たしさでいっぱいだった。  あの男は偽名を使った。しかも自分たちが出会ったまさにその川の名を。  モルトナの者なら誰でも知っている大河の名をぬけぬけと口にした。真実クリシア・バレルトであれば、この地に来たばかりだろう、川の名なぞ知らぬだろうと見くびり、そしてまんまと私は騙された。  農民たちに無知をさらけ出した恥ずかしさに加え、あの男に小莫迦にされた悔しさと、今までまったく気づかずにいた愚かさ、何より己の住まう土地の地理にすら関心を示さなかった浅はかさに、どこにぶつけてよいのか分からない怒りが収まらない。  トレスが戸口に顔を出す。オルテンから聞いてきたのだろう。もうこれ以上は誤魔化せない。 「あの男が、それほど気になるのですか?」  彼女が、いつもの落ち着いたそぶりで単刀直入に聞く。  クリシアは答えられない。自分にも分からないものは伝えようがない。養育係は嘆息し、静かに、だが有無を言わさぬ口調で言った。 「何があったか、お話しください」  逃れられないことを悟り、自分が見たことをなるべく感情を交えずに話す。軍人だった者として、純粋にあの凄腕の男に興味を持ったのだと。  トレスは神妙に聞いていたが、平民とはいえ相手が男である以上、心のうちではどう捉えているか、それはクリシアにも分からない。  話し終えた彼女にトレスが尋ねる。 「それで、お嬢様はその男に会ってどうしたいのです?」  そら来た、とクリシアは思った。  こう言われることは話す前から察していた。だが、彼女にも分からないことは話せない。ただ、あの男に会って話がしたい。何を話すと聞かれても分からないが、とにかく話がしてみたい。彼女が口ごもる。  トレスにもクリシアの気持ちは分かっている。  確かに、あの男にはただの軍人あがりとは思えない何かがある。その意味では、彼女自身の脳裏にもあの男の姿がまざまざと焼き付いていた。だが同時に限りなく不穏な匂いも漂ってくる。  断じて口には出せないが、それはクリシアと同じ匂いだった。余人には決して救えない、何か重く大きなものを抱えている人間だけが放つ息苦しく濃密な気だ。そしてそれは、本人の望むと望まざるとに関わらず、得てして周囲に限りない災厄をもたらす。それ故、クリシアが何故あの男を求めるのかを十二分に理解しつつ、だができれば彼女には会わせたくなかった。  トレスはセルデニー川の名も、あの男がそれを偽名としたことにもすぐに気づきながら、不用意にクリシアを刺激しないため、あえて何も話さず男の存在を無視していた。だが予感した通り、クリシアは勝手に行動に移っている。  とはいえ、こんなに活動的に見えるクリシアは初めてで、もし彼女が元に戻るきっかけになるのなら、という期待もある。トレス自身もどうすればよいか決めあぐねている。  一方、クリシアはここまで来たらトレスが何と言おうと男を探し出すつもりでいた。  恥をかかされたままにしてはおけない。見くびられたことが大いに癪に触っている。隠す必要もなくなったのであれば、今までとは違い、探し出すのに戦略を立てて臨むことができる。  トレスがはっきりと止めないでいる理由を彼女も察している。それを逆手に取り、当面はあの男を探すことを日課とした。モルトナの地図を取り寄せ、まずは出会ったセルデニー川の周辺から、男の居場所を推察する。 あの風体ならば遠方から来たのではなく、少なくともモルトナ郡に住んでいるはずだ。荷車の荷は見えなかったが、およそ農作物か小作道具、あるいは町で手に入れた糧食か家財の類だろう。  あの杣道を行き来しつつ暮らしているとなると、ラグネーゼの住人ではなく、あの日たまたま町に出た帰り道で出会った見込みが強い。  一人で無暗に出歩けない彼女には、なるべく狭い範囲に的を絞りこむ必要があった。男が去った方角から綿密に調べると、いくつかの村を選びだす。  久しぶりに軍人としての血が騒いでいた。  その夜、彼女はまたあの夢を見た。  日々の出来事と夢との因果関係は分からないが、いずれにせよ彼女の心に変化の兆しが現れると、思い出したようにあれを見る。  まだ暗い未明の部屋で、起き抜けから疲れ切ってしまった彼女は、それでも一つのことを覚えていた。正確には感触と言って良い。 あの夢の中で自分が振るう短剣。あれは何だったろう。うまく思い出せないが、とても大事なことのような気がする。  夢というものは不思議だな、と改めて思う。二年前自分が何をされたか、あの恐怖と苦痛と屈辱の記憶は、心にこびりついて離れない。  駐屯地から出撃し森の中で敵兵に遭遇したこと。罠に陥り部下は全滅し、彼女ひとりが囚われたこと。そして未だに思い出すことさえおぞましいあの辱めの数々。  だがその記憶が、夢の中では別の形で現れる。そして夢の中のあの気味の悪い触手の群れの方が、事実として覚えている記憶よりも殊更にこの心を蝕んでいく。  ただ一つ、未だに気がかりなことは、自分がどうやって助かったのか、それだけが分からないことだった。  地下牢での記憶の最期は靄がかかったように濁り、自分がどうしてあの男たちの手を逃れることができたのか、それだけがどうしても思い出せない。気付いたらぼろぼろの姿で山を彷徨っていたという言い方がぴったりだった。  もっとも、今さらあえて思い出したいとも思わない。今まとわりついている記憶だけでも、自分をここまで責め苛み、未だにまともな食を摂れなくさせている。  助け出された後も、父が手配した医師や尼僧たちからは、思い出さないように、早く忘れるようにと散々言って聞かされた。  結局、忘れたい記憶は心が勝手に封印してしまったらしく、無理に思い出そうとすると決まって頭痛や眩暈に襲われるため、いつしか思い出すこともできなくなった。彼女自身、それでよいとも思っている。  すべてを思い出すことが怖かった。  だが、今日の夢は今までとは何かが変わったような気がした。あの短剣の感触が妙に手に残っている。夢の中のことは虚実ない混ぜだが、あの剣を振るう自分の姿は、本当にあったことだろうか。あったとすれば、自分はいつどのようにして手に入れたのだろう。  じっとりと汗ばんだ体で考えているうちに、またとろとろとした眠気が訪れ、彼女はぐったりしながら目を閉じた。  朝、珍しくゆっくりと起きた彼女は、寝台から下りるとまず文机の上を見た。目の前には地図がある。選び出した村々はほぼ頭に入れたが、あの男に近づいた感はなかった。まだ手駒が足りない。  クリシアはいつものように風呂に浸かった。目を閉じて湯の温かさを味わう。ほっと息をつくと、頭の中にまで湯気が滲み込んでくるような気がしてくる。数日前に会った母娘や農民たちを思い浮かべる。彼らもこんなふうに風呂を使うのだろうか。いや平民にこんな贅沢な使い方はできない。何日かに一回程度、家族一緒にそそくさと入るか、水浴びで済ますこともあるだろう。  彼女は湯をすくうと肩に掛けた。手のひらからこぼれる音が続く。何度もすくっては肩に掛ける。温かい。  その時だった。  突如として、ひらめいたものがあった。  目を見開き、思わず盥の中で立ち上がりかける。が、気を取りなおした。おかしな行動は禁物だ。トレスに気づかれると厄介なことになる。大きな音をたてないように、もう一度身体を沈めた。  はやる気持ちをどうにか抑え込み、いつもと同じように風呂から上がると、彼女は食事を済ませた。落ち着いた足取りで自室に戻り、トレスも侍女のイリアもついてきていないことを確かめる。  やっと地図を広げると、セルデニー川へとつながる何本もの源流や大河から分かれる支流を指で辿っていく。  水だ。  あの男は人目を避け、集落には住んでいないはず。とすると井戸は使えない。では水はどうする。手近な川から汲んでくるしかない。ならば川からそう遠くへも行けない。  男が去った方角を指で辿り、おおよその目星を付ける。  その口元に、もう忘れてしまったかとも思っていた笑みが微かに浮かんでいたことに、彼女も気づいていなかった。
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