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第四十話 再会
その日、クリシアはトレスに出かけることを告げたが、行き先については曖昧にした。まだ男を見つけられる確証はない。今日も特に当てもなく出かける風を装う。
オルテンには方角を伝えたが、自分がなぜそこを選んだのかは彼にも言わない。ただ、今までとは違う日になるような予感がした。それは、自分に都合が良いだけの淡い期待かも知れない。だが、モルトナに来るまでの彼女には到底見られなかった、明らかな目的をもった行動と、何かを得たいと願う生きるために必要な思いでもあった。
オルテンは相変わらず黙って従ってくれるが、彼女の変化を最も如実に感じているのは彼だろう。馬車の中のクリシアは、見えぬ御者台の広い背中を感じ、彼の律儀さと自分への情愛に感謝していた。
馬車は、やがて目指した村へと差しかかった。
まずは付近の様子を訊いてみたい。誰かが男を見かけていないか、人目を避けて住まうことのできる場所はないか。
オルテンが馬車を止め、御者台から降りると目についた村人に尋ねる。道々幾人かに訊いたが、特に収穫はなかった。次の集落でもめぼしい話は聞けず、彼女の頭に見込み違いかとの思いがよぎり始めたころ、彼が村人から興味を惹く話を拾ってきた。
近くの川沿いから山へ分け入ると、今は無人となった小さな集落がある。土地の者は滅多に足を向けないが、雨露を凌ぐくらいはできるらしい。
クリシアは馬車をそこに向けた。
絶えず川のせせらぎを聞きながら、馬車が細い山道を進む。
新緑の生々しい匂いが息を吸うたびに鼻孔に入ってくる。やがて山へと分け入る杣道までやってきた。
だんだんと道が険しくなる。揺れが激しく、手で支えていないと座席から投げ出されそうだ。オルテンもさぞ苦労しているだろう。すまないな、という気持ちを感じながら、それでも彼女の心は逸っていた。
もしかしたら、という思いが次第に強くなっていく。
と、馬車が止まった。窓からはまだ山の木立しか見えない。御者台から降りたオルテンが窓越しに告げてきた。
「この先は馬車では行けません」
二人は馬車をその場に留め、外套を脱ぐと徒歩で山道を登り始めた。緩やかな傾斜だが、今のクリシアの身体にはきつい。息を荒げ一歩一歩踏みしめるように進む彼女を、オルテンも気遣いつつ歩調を合わせる。薄暗い山道で、時折風に揺れる梢の音の他は、二人の息遣いと地を踏む足音だけが響く。
クリシアは女物の服と靴で来たことを後悔した。裾を端折りながら進むが、気を付けなければ転びそうになる。
この先の集落に果たして男がいるのか。そもそも誰かが住んでいるのか。そんな思いが頭を過ぎり、幾度となく挫けそうになる。
オルテンに休息を勧められ、古くからそこにあるような倒木に腰かける。尻が汚れるだろうが、今は構う余裕もない。目を閉じ下を向いて息を整える。昔の自分とは大違いだ。
彼女が改めて己の不甲斐なさに気落ちしていると、オルテンの鋭い声がした。
「クリシア様、こちらへ!」
顔を上げ、のろのろとオルテンに近寄る。彼が興奮した面持ちで地面を指し示した。まだ新しい轍の跡が柔らかな地面に残っている。
クリシアの顔にみるみる生気が蘇ってくる。誰かがここを通ったのは間違いない。しかも轍の幅は、あの男が引いていた荷車とほぼ同じだ。クリシアとオルテンは顔を見合わせ頷きあった。ゆっくりと、だが着実に先へと進む。
やがて、森の奥にぽっかりと空が開けた。
二人の眼前には、山の斜面に申し訳程度に作られた集落があった。点在する数件の家はどれも人が住まなくなってからだいぶ経ち、手入れもされず、寒々しい空気が感じられる。
小さな木橋の掛けられた小川を渡る。おそらく下で先ほどの川へと注いでいるのだろう。雑草の繁る道を進むが辺りに人の影はない。
そよ風の中に、鳥の鳴き声が聞こえる。
用心深く、周囲に気を配りながら二人は進んだ。と、何かの音がする。耳を澄ますと、遠くで枝を折るような音がまた聞こえた。行く手にある石垣の陰からだ。オルテンが先に立ち、ゆっくりと近づく。
陰から覗くと、小さな畑に男が一人背を向けて立っている。苗を支える添え木を立てているらしい。
その後ろ姿にクリシアが確信して、石垣から離れると近づいていった。
「おい、セルデニー」
後ろからのその声にも、男は動じなかった。すでに気づいていたような素振りで、無視したまま作業を続ける。やがて手を止めるとゆっくりと振り向く。
無造作に伸ばした灰橡色の髪。うすい無精ひげに、あの人を怯えさせるような眼差し。
ついに、見つけた。
クリシアが歩み寄る。
「私を覚えているな」
男は黙っている。
「お前に偽名を使われた、ヴェナード平定候バレルトの娘だ」
男はしばし沈黙していたが、やっと声を発した。
「何の用だ?」
明らかに迷惑そうな態度をとる。だが同時にその問いは、クリシアの最も答えにくい問題を一言で的確に刺し貫いていた。彼女は言葉に詰まったが、悟られないように返す。
「もう一度会いたかった。騙されたままでは癪だからな」
男は黙ったままだ。
「本当の名を教えて欲しいな」
「何のためだ?」
男の問いに、クリシアの表情が昔の騎兵のころに戻っていく。
「お前に興味を持った。その腕前はかなりのものだ。どこでどのように身に着けたかを知りたい」
「お前には関係のないことだ」
背を向けて作業に戻る。思った通りの答えだ。だがここで引いては、何のために苦労してここまで来たのかすら分からなくなる。
「そう言うな。無礼は承知だが、今の私の心を正直に言えばこの言葉になる」
クリシアも伊達に騎兵隊長にまでなったわけではない。男の部下と心を通じさせるには、並みの男以上に腹を括って交わるしかない。場数は踏んでいるつもりだ。
「私も以前は軍にいた。武人を志した者として、お前の腕には敬意を払っている。久しぶりに血が騒いだ。ぜひ話を聞かせて欲しい」
敵ではないことを知らせ、自尊心をくすぐり、相手に主導権を与えて言葉を引き出す。もちろん、これでこの男がやすやすと心を開くとも思えなかった。案の定、男は黙って手を動かしている。初対面での深入りは禁物だ。今日のところはこの程度だな、と彼女が悟る。居場所を掴んだ以上、焦る必要はない。
「また来てもよいか?」
無論承諾を得る気はなく、つまりはまた来るぞという宣告だ。男は黙っている。あからさまには拒絶されていないと安堵し、背を向けて帰りかけたが、ふと思い出したように振り返る。
「一つ訊き忘れた。お前と私はどこかで会っているのか?」
それは用意した言葉ではなく、全く突然にひらめいたものだった。初めて出会った時の男の自分を見る眼差しが、いまここで思い出された結果だ。
そのとき、男の足元で枯れ枝の折れる乾いた音がした。踏んだのだろう。不意に重心が変わったか、足に緊張が走ったか、それとも偶然か。彼女にも判断はつかなかった。
帰りの馬車の中で、クリシアは服の裾を払い、靴の泥を念入りに拭っていた。オルテンには今日のことは口止めしてある。自分が言った言葉、あの男の腕前に驚嘆したことは事実だ。だが自分があの男に興味を持つのは、技量やあの顔つきなどではなく、あの男の自分を見る目のような気がしている。
独りよがりかもしれないが、あの男自身、自分に何かを感じているような、そんな気がする。
年頃の娘なら思慕の念とでも思って恥じらうのかも知れないが、そんなものではない、もっと重たい何かを。
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