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第四十一話 養育係
翌日、クリシアは城館で過ごし、あえて男の許へは行かなかった。
駆け引きには間合いが大切だ。あの男に自分の意図は伝わったはず。それだけで今は様子を見るべきだ。それに、あいつは利口だ。畑も作っていた以上、私の存在だけで、慌ててあの場所を引き払うとも思えない。
三日ほどが経った。そろそろ頃合いだと考えた彼女は、改めて男に会うため出かけることにした。今日は自分の脚でも歩きたいと伝え、服装も男物にし革の長靴を履く。久しぶりのいでたちだ。
準備を済ませて馬車へと向かう。
いつもは見送るトレスの姿が見えないな、と不思議に思う。
馬車の横でオルテンが待っている。だが様子がおかしい。もったいぶるような、ばつの悪そうな、そんな顔つきでいる。
馬車に乗ろうと回り込むと、そこにトレスが立っていた。驚く彼女に告げる。
「今日は私も同行します」
山道を左右に揺れる馬車の中で、クリシアは渋い顔つきのままだ。隣にはトレスが澄ました顔で収まっている。
男を見つけたとなればこうなる予想はしていたが、とはいえこれではまるで小姑だ。オルテンは命じられた通り何も明かしていなかったが、さすがにトレスの眼は誤魔化せない。
あの日と同じように山道の途中で馬車を降りると、徒歩で集落に向かう。クリシアが意外だったのは、トレスがずいぶんと歩き慣れていることだった。常と変らぬ女物の衣服と靴で、息を切らすクリシアを気遣いながらも悠然と杣道を進んでいく。
彼女があの男に会ったら、いったい何と言うのだろう。
集落はつい先日と全く同じだった。人気はなく寒々しい。石垣を巡ってもそこに男はいない。だが畑の手入れは明らかに進んでいる。ということは、男もまだここにいる。
三人はつかず離れず周囲を調べた。石垣の上に建つ家をよく見ると、他の荒れ果てた家々とは違い、そこそこの手入れがしてあるようだ。戸口の脇には農具も置いてある。どうやらここを住居としているらしい。
家の裏手へと回ると、下とは別の畑があった。そして男がいた。
声をかけようとするクリシアをトレスが制す。含みを持った目つきを向けると、自分一人が前に出る。畔にまで進むと立ち止まり、男の様子をしげしげと眺めた。
「こんにちは」
トレスがおだやかに声をかける。
男は最前から気づいている様子だが、無視して畝を鋤きつづけ、彼女も黙ってその様子を見ている。しばらくして男はやっと手を止め、ゆっくりと振り向いた。
彼女が自分を見た男に名乗る。
「私は、ヴァルトリーナ・トレスです。クリシア・バレルト様の養育係です」
男は黙っている。
「あなたとは、先日お嬢様と一緒にお会いしましたね。その節は失礼な振る舞いをいたしました。でも、理由はご理解いただけると思います」
トレスの言葉はクリシアたちにも届いている。だが彼女が何を考えているのか、まだ分からない。
「ご覧のように、クリシア様はお身体が優れません。モルトナには静養のためにいらっしゃいました」
男が、後ろに立っているクリシアに視線を送り、再びトレスに戻す。
「ならば、すぐに連れ帰れ」
だが、トレスはその言葉に平然と反論する。
「ですが、そうもいかないのです。お嬢様はあなたにご用事があるそうです」
「迷惑だ」
「なぜです?」
「他人と関わる気はない」
「あなたのためにもなるお話ですよ」
「関心がない」
「そうでしょうか」
トレスの言葉を振り切り、男が畑仕事に手を戻す。
その後ろ姿にトレスが再び問いかけた。
「あなたのお生まれはどちらです?」
返答はない。
「ルクルドの軍にいたとおっしゃいましたが、ルクルド人ではありませんね」
その言葉に、男の手が一瞬止まった。だが再び動き出す。
「私もルクルドの生まれですから分かります。それとも傭兵だったのですか? 軍人にも少々知り合いがおりますが、どちらの将軍の配下です? 王立の兵団ですか?」
そこで言葉を切る。返答を待ってみたが、男が無視しているとみて言葉を継いだ。
「この集落の畑は、しばらく使われていなかったはずですね。下の畑もすべてあなたが手入れをしたのですか?」
応えのないまま彼女が続ける。
「でも、ここでは陽当たりもさしてよくありません。肥の手配も大変でしょう。お気づきと思いますが、収穫は思ったほどではありませんよ」
男は黙って畝を鋤いている。トレスがその後ろ姿に、ひときわ大きな声で言った。
「いかがでしょう。私たちと一緒に来ませんか? 城館にも畑がありますが、小作人がおりません。あなたにその畑を預けたいのですが」
クリシアとオルテンが驚いて顔を見合わせる。
トレスの言葉は続いた。
「もちろん、館とは別に住まいも用意します。必要以上に干渉はしません。見たところ、下の畑もまだ苗木の様ですわね。せっかくですから掘り起して植え替えれば良いでしょう。私どもの畑はここより陽当たりもよいし、きっとよく育ちますよ。植え替えは皆で手伝います」
男が振り返る。眉根にしわを寄せ、抑揚のない声で、帰れ、と静かに言った。
トレスはその視線を平然と受け止めていたが、やがて、かしこまりました、と答えると踵を返し、クリシアとオルテンに向かって歩いてきた。
帰り道、クリシアには言葉もない。トレスの言ったことが本心だとすれば、それはあまりにも大胆だ。だが考えてみれば一つの結論であることには間違いない。どこの誰ともわからぬ輩とおかしな関係を続けるより、いっそのこと自分の手元に置いてしまう方が安心できる。
何と言って良いのか分からず、彼女はトレスに一言だけ尋ねた。
「トレス……ルクルドの出自だったの?」
「いいえ。先祖にスヴォルトの血が混じっていますが、何代も続くオラードの家系ですよ」
平然と答える彼女に、肩透かしをくらう。
「じゃ、さっき男に言ったのは?」
「素性を隠しているのですから、ルクルドの出という言葉も偽りでしょう。少々苛立たせてやっただけですわ」
さも可笑しそうに、ころころと笑う。
そんなトレスに、クリシアは再び言葉が出ない。やはり自分よりも役者が上だと、改めて思い知らされた。
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