第四十二話 マーカス

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第四十二話 マーカス

 城館に戻ると、許しなく男に会わないようにとトレスから釘を刺された。だが、それはクリシアのためにというより、むしろトレスが今日男に告げたあの言葉に関わっている気がして、彼女は素直に従うことにした。トレスには何か考えがあるようだ。  それから数日の間、クリシアは依然と同じように過ごしたが、頭の中では常にあの男と、そしてトレスが何を企てているのか、という思いが錯綜していた。  ある日、トレスはオルテンと共に馬車で出かけて行った。ラグネーゼに用事ができたという。馬車がなくなるので遠出ができないが、自分らが帰るまでおとなしくしているように、とクリシアは言い残された。  その夜トレスとオルテンは帰って来なかった。  翌朝、クリシアはイリアに二人の出かけた用件を訊ねてみた。  彼女は子供のころに患った病のせいで口が利けない。だが耳は聞こえるので、仕草や手真似でほぼ会話は成り立つ。  彼女が侍女として選ばれた理由にはその境遇も多分に盛り込まれていると、クリシアは初めから察している。喋れない者ならば、余所で主の気にそぐわぬ噂を吹聴する心配もない。それでも、彼女も何も聞いていないということしか分からなかった。  どうにも、二人があの男の件で出かけたように思えてならない。だが、なぜ帰ってこないのか。心配することはないと思うが、自分の知らないうちに何かが進行しているようでどうしても不機嫌になる。  その夜もトレスとオルテンは帰って来なかった。  翌日、クリシアは居ても立ってもいられず、下男のレントールに作業用の荷馬車を出すようにいった。だが、今の彼女に乗り慣れない荷馬車は辛い。レントールもオルテンからきつく止められている。言い聞かせようとするクリシアと、生真面目な老男のレントールが半ば押し問答になりかけたとき、表でポルコフの声が聞こえた。  二人が外に出る。  イリアも、料理番のソルティニ夫婦も城館から出てきた。  オルテンの馬車が見えた。そのまま門をくぐると中庭で止まる。扉を開けてトレスが降りてきた。クリシアに頭を下げる。 「お嬢様、留守にして申し訳ありませんでした」  口を開こうとした彼女を置いたまま、馬車の中に声をかける。 「さ、あなたも降りなさい」  馬車の中から降りてきたのは、まぎれもないあの男だった。  クリシアが唖然とする。なぜこの男がここに。なにより、トレスはどうやってこの男を説得した。  驚いて声のないクリシアたちにトレスが伝える。 「皆揃っていますね。丁度良いので紹介しましょう」  トレスが男を振り向く。 「名前は自分で名乗りなさい」  男は黙っていたが、なるべく皆と視線を合わせないようにしながら答えた。 「マーカス……セフィール・マーカス」  クリシアがふたたび驚く。トレスは名前まで訊き出していた。 「小作人として雇うことにしました。林の先にある直轄農地の手入れをさせます」 「今度は、本名か?」  やっとのことでクリシアが口にする。男に代わってトレスが答えた。 「本名ですわ」  そのまま、トレスはマーカスという男を連れて城館の勝手口へと歩いて行った。  自室に戻ったクリシアは、靴を脱ぎ、寝台の上に脚を投げ出し座り込んでいた。はしたない格好だが、そんなことは構わない。驚く、というより釈然としないことばかりだ。あの男、マーカスといったが、なぜ素直にここに来た。トレスはどうやって手懐けた。  確かに、トレスがあの男に言ったことは最もよい打開策だ。だが、あの男が素直に聞き入れるとは到底思えなかった。その予想に反してあの男はもうここにいる。そして、自分ではなくトレスに従っている。  クリシアは寝台の上に寝転んだ。天蓋を見つめる。  あの男が自分の手の届くところまで来た。それなのに、思い描いていた高揚感はない。ずっと前から欲しがっていた宝物を、目の前で横取りされた気分だった。 「クリシア様」  不意にトレスの声がした。戸口に立っている彼女にクリシアが飛び起きる。トレスはそのままそばに寄ってきた。 「差し出がましい振る舞いをいたしました」  その言葉に何と返して良いか分からないが、弱音は見せたくない。 「気にしないで。確かにあなたの言った方法が最善と思う。ただ、どうやってあの男を従わせた?」 「根気よく話をしました。失礼ながら、こればかりは年の功としか言いようがありません」 「あなたの話を聞いたの? あの男が」 「彼は利口です。いずれあのままではいられないことを、きちんと理解していました」  クリシアはほっと嘆息したが、しこりのようなものが残る。トレスがあの男にした話は、自分と関係があるはずだ。だが、それを彼女に訊く勇気はまだない。  黙っている彼女に、トレスが言う。 「あのマーカスという男は、農地の傍の小屋に住まわせます。まず明日は、皆総出で農地の手入れです。二、三日かかるでしょう。終わりましたらもう一度あの集落に行き、マーカスの畑の苗や家財道具を取ってきます」  クリシアが表情を変える。あの男と一緒にいられれば、暮らしぶりが分かるかも知れない。 「私も同行して良いか?」 「止めてもお聞きにならないでしょう」  トレスが半ばあきらめた顔で言う。 「ですが、一つ私に約束してください」  クリシアが小首を傾げる。 「しばらくは、私の許しなく二人だけで会わないでください。皆の手前、まだあの男と親しげにはしていただきたくないのです」  いままでの彼女から皆にはおよそ察しがついてしまうと思うが、それでもクリシアは素直にうなずいた。  翌朝、城館の者たちが皆で農地に向かう。  畑に着くと、すでにマーカスは一人で作業を始めている。放っておけば、たった一人ですべて終わらせかねない勢いだった。  トレスの差配で皆が作業に加わる。城館の男たちが協力して生い茂ってしまった灌木を抜き、畔を整える。女たちは雑草を抜き、小石を拾い、土を鋤く。  トレスは、あらかじめマーカスのことを人嫌いで無口と皆に伝えている。皆も彼を一目見て察しており、必要以上の会話はしない。クリシアも、身体に障りのない程度に作業に加わるが、その目はついあの男を追ってしまう。  ふとマーカスと目が合う。そのとき、クリシアは不思議な感覚に捉われた。  この男の眼はどこかで見た気がする。ずっと以前、この男と同じ眼をどこかで見ていた気がする。そう思いながら、男の眼がまだ自分に注がれていることに気づき、慌てて視線をそらす。だがマーカスは全く気にかけていない様子だ。  どうも彼女が思い描いていた関係とは勝手が違う。  城館の者は皆よく働いた。もともと土いじりの好きなポルコフや下男のレントールに加え、料理番のボルコ・ソルティニも畑仕事は分かっているようだ。オルテンでさえ大きな身体で力仕事を引き受けている。  女たちは、イリアも、ボルコの妻のマレッサも、トレスの指示に従いながら、黙々と雑草を摘んでいる。何より、トレスが畑仕事まで差配できると知り、ますますトレスに頭が上がらなくなる思いだ。  と同時に、休み休みにしか動けない自分はここでも役立たずだな、とまたもや疎外感を感じていた。  昼食は、ソルティニ夫妻があらかじめ持参していたものを、マーカスが住むことになった小屋の火で温め直し畑の皆に配った。ただ、クリシアだけは常と変らぬ豆粥を小屋の中でただ一人で食べている。トレスが給仕を申し出たが断った。  恥ずかしかった。  皆と同じものも食べられず、そのためにトレスがわざわざ傍に就くなど自尊心が許さない。粥を掬い、ゆっくりと口に運ぶ作業をくり返す。  余計なことは考えないように。無心にならなければ吐き戻してしまう。身体の中に食物を届けることは、彼女にとって何よりも自分を惨めにさせる時だ。  翌日も畑に出たが、やはりクリシアとマーカスはほとんど言葉を交わさず、彼女の心には一層の焦燥感が募るばかりだった。  あくる日、男たちは彼が住んでいた集落に行き、畑の苗を取ってきたが、クリシアは館から出なかった。トレスには、疲れたので今日は静養すると言ってある。  本心は、マーカスとの距離感を掴みあぐね、むしろ顔を合わせないほうが居心地の悪さを感じないためだ。話しかけるにもきっかけは何もない。  彼女は自室に一人でいた。  目の前の枝の果実でも、熟していなければ捥ぎ取ることはできない。そんな気持ちだった。
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