第四十五話 隔たり

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第四十五話 隔たり

 月が替わり、季節は夏へと差し掛かっている。  モルトナでは、館の皆で植え替えたマーカスの畑の作物も、ぐんぐんと伸び葉が生い茂っていた。虫が出始める季節のため、トレスが新たに頼んだ近くの小作女たちが手伝いに来ている。  晴天の下、マーカスと中年の女たちは汗を流しての虫取りに余念がない。    それを、遠く木陰に止めた馬車の中からクリシアが眺めていた。    マーカスとは、あれ以来直接会わずにいる。  それはトレスに言われたからでもあるが、何より会ってどうするかの決心が彼女自身につかないためだ。  話したいことはたくさんある。だが、おそらくあの男は自分との会話を欲しはしないだろう。無視されれば、それだけ惨めな気分を味わうだけだ。    こんな覗き見のような真似も十分恥ずべきことだが、それでも遠目にマーカスを見ているだけで、クリシアは以前と違う気分になることができた。父の居城にいたころとは違う。あの男がいることで、いつか何かを変えられるかもしれないという予感。  今のところそれは淡い期待でしかないが、彼の普段の動向は知っておきたい。  こんな自分に、文句ひとつ言わずつき従っているオルテンはどう思っているだろう。まさか私が、あの男に思慕の念でも抱いたと思っているだろうか。    クリシア自身、自分がマーカスにこだわる気持ちを理解できないでいる。  確かに、兵士だった時代、自分に色目を向けてくる男は数知れずいた。その中には、地位、身分、武勇、そして風貌も優れた者たちもいた。  クリシアも、女としての自分の見た目が悪くないという自覚は持っていたが、あの頃はそういった者たちとそんな仲になることなぞ考えもしなかった。  では今はどうか。仮に相手があの男だったら。  そう考えた彼女を、冷静な自我が現実に引き戻す。    そんなことはあり得ない。    筋張って萎びた手が震える。  私はもう人並みの女とは言えない。誰かに添い遂げる資格もない。そもそも今の私は、男から見て色恋の対象にはならないだろう。まして相手があの男であればなおさらだ。    畑に見え隠れするマーカスに視線を戻す。彼は、一緒に働く女たちとも殊更には交わらず、黙々と自分の日課のみに忠実に動いている。  自分があの男にこだわるのは、世間によくある男女のこととは根本的に違う。だがそれが何であるかはまだ分からない。  彼女はほっと息を吐くと、御者台のオルテンに馬車を出すように言った。    夜、いつものように味のない豆粥の食事を終えたクリシアは、早々と自室で一人になっていた。彼女の日常は、たまにマーカスの様子を見る以外ほとんど依然と同様に戻っている。取り立てて何をするわけでもなく、日がな一日退屈しのぎを探すだけの日々。    手持無沙汰になった彼女は、気晴らしになる品を探してアンブロウの父の城から持ってきた衣装箱を開けた。剣の一振りでもあれば振り回したいところだが、父親の命で武器の類には一切触れることができない。  こまごまとしたものをかき分けているうちに、彼女は小さな木箱を見つけた。開けてみると赤い布が入っている。  ああ、これも持ってきていたのか。  彼女はその木箱を持つと、ふと思い立ち部屋を出て行った。    自室で書き物をしていたトレスは、クリシアが戸口に姿を見せたので立ち上がって迎え入れた。 「どうなさいました」 「トレス、この布を見てくれるか?」  彼女が小さな箱を開け、赤い布を取り出す。蛇か竜かが絡みついた紋章らしきものが染め抜いてあるが、途中から切れているため定かにはわからない。  受け取ったトレスが、手触りを確かめる。 「上等な織物ですね。どこのものでしょう?」 「そうか。トレスにも分からないか」 「どこで手に入れたものですか?」   「私が助け出されたとき、腕に捲いていた」  その言葉に、トレスの表情が険しくなる。クリシアにとって、決して思い出したくない記憶に結びつく品だ。だが、どうやらそれだけでは言い表せない何かにつながるものらしい。    クリシアが、今も傷跡の残る左腕に手をやりながら言う。 「私が見つかったとき、この左腕の傷だけは受けてまだ日が浅かった。そして、その布が捲かれていた。誰が捲いたのかは分からない」  彼女自身にも記憶はないが、のちにそう聞かされて以来、その布は彼女にとって殊更に大切なものに思え、小箱に終って自室に置いていた。   「平民の持つものではありませんね」 「私を捕えた奴らとは思えない。だとしたら、それを捲いてくれたのは誰なんだろう?」 「お嬢様は、その者がご自分を救い出したとお思いなのですか?」 「分からない。あの時何があったのか、肝心なところだけがすっぽり抜け落ちている」    そして、まだらになった記憶を手繰り寄せようとする度に、決まって感じるあの頭痛や眩暈。あのせいで思い出したい記憶すらも思い出せない。  だが、野盗がこんな布を盗むだろうか。どんなに高価であろうと、町に出て金と交換しなければならないものなど盗んだところで役に立たない。まして紋章入りでは出所もすぐに知れる。としたら、どこの誰のものなのか。  この布は、あの短剣と同様に、彼女の中での謎の品だ。  そしてこのモルトナに移り住んでから、あの夢の中身が少しずつ違うように感じられるのも、何かの暗示なのだろうか。    考え込んでいる彼女にトレスが声をかけた。 「お嬢様、昔の記憶とは決まって良いこと、正しいことばかりとは限りません。身体や心は正直です。思い出せないにはそれなりの理由があるはず。くれぐれも無理をなさらずに。時が来れば自然と取り戻せるものもあります」 「そうだな」  クリシアは頷いたが、納得していないことは明らかだ。   「ところで、明日はマーカスに届けるものがあります。ご一緒にいかがですか?」  トレスは話題を変えた。クリシアの目つきが変わる。    そういえば、日中レントールが積荷を摘んだ荷馬車を引いていた。何かは知らないが、トレスが私に声をかけたということは、行けば私にも何らかの利が生じるということか。  何より、面と向かってマーカスに会える。まだ一抹の不安はあるが、ここは従ってみた方がよさそうだ。彼女は素直に頷いた。
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