別れの曲

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別れの曲

十本ばかり植えられた小さなひまわり畑のある大きな家から毎日夕方になるときまってたいそう美しい音色が聞こえてくる 柔道の道場の帰りの清三郎は毎日ここで立ち止まり、天高く日に日に背を丈を伸ばすひまわりを眺め、そしてその美しい音色に聞き入るのであった。たぶんピヤノであろう。裕福な家庭の娘さんでも弾いているものだろうか清三郎は様々を思い巡らしながらそのピヤノに聞き惚れていた。学生帽を脱ぎ、腰にぶら下げた手ぬぐいで頭から顔からそこいらじゅう汗を拭き拭きまだ暑い夕暮れに佇むのだった。なんという曲であるのかも清三郎はしらなかったのだが、そのピヤノの音色は清三郎の心を奪い離すことはなかった。しかし、そのピヤノの二遍か三遍同じその曲を繰り返すとぱたりとやんでしまい、そうすると辺りは一面蛙や蝉の大合唱が響き渡る。その頃にはだいぶ暗くなり清三郎はあと一里ほどの家路を急ぐのであった。また明日もぜひとも聞きたいものだ。 ある日、清三郎はいつものひまわりとピヤノの家にさしかかったのだがその日はピヤノの音が聞こえてこなかった。はて、毎日ピヤノが聞こえておったのだが今日はもう終いにしたのであろうか。それはじつに口惜しく残念でならない清三郎であった。少しばかり年下の白帯の者を強く攻めたものだから師範に叱られ、ついいらぬ手間をとらされそれで無駄に時間を喰ったのだと少々腹立たしく思えた。そのとき、おやと、誰かひまわり畑に人影があるのを清三郎は見つけた。きっとこの家の者であろう、挨拶をしてあのピヤノのことを伺おうと清三郎は些か強ばったように声をかけてみた。 「こんにちは。いつもピヤノを弾いておられるのですか」 よく見ると自分と同じくらいの齢の顔色がたいそう悪く、まだ寝る時間でもないだろうに寝巻きを着た少女がこちらを向いた。 「はい。私が弾いておりますの」 声に張りはなく明らかに病弱と思えた。そうであればこの時間の寝巻き姿にも合点がゆくというものだ。 「不躾ですが、どこかお悪いのですか」 「はあ、幼い頃から身体が弱く、今は肺を病んでおりますの」 「それはどうぞお大事になさって」 少女は少しはにかんだように小さく頷いた。 「他所の人とお話しするのはもう何ヶ月ぶりでしょう、お母様やお医者様としかお話しすることがないんですの」 目を見ず話す少女の横顔は寂しげであった。よければこれから毎日、僕がお話しのお相手にまいりましょうか、そう言いかけたところで奥から母親らしき人がこちらへとやって来た。 「こちらはどなたですの」 母親は少女に尋ねた。 「僕は岩谷清三郎と申します。こちらより一里ばかり先に祖父母と住んでおり毎日こちらの背丈を伸ばすひまわりを拝見しピヤノを聴かせていただいておったのです」 簡単な自己紹介をし存外怪しい者ではないことを清三郎は訴えた。 「さあ、小夜子そろそろお床へ」 母親はそっと少女の背中を押しながら軽く会釈をし家に入ろうとした。 「あの、あの曲はなんという曲でしょうか」 母親が口を開きかけるのを遮って小夜子はまるで蚊の鳴くようなか細く、いや上品な声で答えた。 「あれは外国のシヨパンの練習曲で別れの曲ですわ」 小夜子は自分の口から教えたかったのだ。 「別れの、曲ですか、ありがとう。では、さようなら。お大事になさって」 それだけ言うと清三郎は下駄を鳴らして走り出した。振り返ると家に入ろうとするおさげ髪の小夜子が小さくこちらに右手を振っていたように見えた。だいぶ日が暮れていたものだから見間違えかもしれぬ。幻か。 小夜子は何ヶ月ぶりかに母親や医者以外の者、それも齢の近い人間と言葉を交わしたことがとても嬉しかったらしく布団の中から母親に何度もその話ばかりを笑顔で話すのであった。母親はそんな小夜子を見るにつけ胸が締めつけられるような思いにかられながらも優しく笑顔で相槌をうつのであった。 それからも毎日、清三郎は小夜子の家の前で立ち止まりピヤノに耳を傾けた。それまで特に音楽になど一切の興味を示さなかった清三郎が初めて興味を持ったのが小夜子の弾くピヤノであった。気がつけばどんどんと勢いのあるひまわりがやがて首部を垂れはじめていた。まだまだ茹だるような暑さだが夏の終わりも近いのだ。今日も小夜子のピヤノの音はとても美しい音色を響かせ田の畦の蛙の鳴き声などひとつも清三郎の耳には届かなかった。ただ小夜子の弾く別れの曲だけがその空間を支配しているようであった。どうかもっと近くで、叶うならばこの目の前で小夜子のピヤノを聞いてみたいと日に日に強く思うのだが一向そういった機会が訪れることはなかった。 ある日を境にして、それまでは二遍か三遍繰り返し弾かれていたものが一遍で終いになった。少し工合が悪くなったのであろうかと清三郎はとても気にかけた。 やがて、ひまわりも項垂れて黒く朽ち果ててしまい、その頃にはもう小夜子のピヤノの音が聞こえることがなくなっていた。 ある土砂降りの日にもう二度と小夜子のピヤノが別れの曲を奏でることがないことを知らされた。
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